【文藝春秋】
『悪い噂』

玄月著 

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 たとえば、ある男がうら若き女性のヌード写真をまのあたりにして、ムラムラッと欲情したとする。すると当然のことながら、男のペニスは直立し、パンツとズボンを押し上げて激しく自己主張するわけである。男なら誰でも一度は陥ったことのあるこの事態、不本意ながら盛り上がってしまった自身の股間を他人に見られるのは、男としてはじつに恥ずかしく、また決まりの悪いものでもあるが、それは少なくとも男という生き物としてはしごく健全な反応だということは、誰もが認めるべき事実である。

 体は男なのに心は女、あるいはその逆を主張する人々の事例に「性同一性障害」というしっかりとした名前が与えられ、これまで男だった人たちが手術で性転換をはかるケースが、社会的にどうかはともかく、とくに珍しいことではなくなりつつある現在、「男らしさ」という言葉を持ち出すのは、あるいはナンセンスなことなのかもしれないが、同時に私たち――とくに男同士の世界において、「男らしさ」という価値観が、たとえば女性にやさしいとか、小さなことにこだわらないとかいった、性格や態度ではなく、純粋にペニスの大きさによって決められることがしばしばある。アソコがデカい=男らしいという、この単純明快な法則は、単純で即物的であるがゆえに、じつは根深い信仰をもっていたりするものなのだ。

 本書『悪い噂』には、<骨>と呼ばれている男が登場する。つるりとした白い顔、子どものように低い背丈、蛙のように曲がった短い足をもつこの男、見かけはごくおとなしく、またその容姿からいかにも他人に軽んじられそうなところがあるのだが、彼のことを少しでも知っている町の人々は、彼とはできるだけ関わりをもたないようにしていた。<骨>を怒らせると何をしでかすかわからない――鶏の首が玄関先に突っ込まれたり、犬の死骸を天井裏に放置されたり、棺桶の中にはいった老人の遺体のペニスが切り取られ、当人の口に咥えられていたりといった、およそこの町でおこった特異で凄惨な出来事の大半が、じつは<骨>の仕業ではないかとされているからだ。

 本書はそんな<骨>が22年前に引き起こした、とくに血なまぐさいある事件の顛末を、現在から過去を振り返る一般的風評の視点と、<骨>の甥であり、彼の家族として一時期暮らしていた涼一のリアルタイムな視点のふたつから描いた作品であるが、こうした複数の視点から浮かび上がってくる<骨>という男について言えるのは、およそ私たちには理解しがたい、どす黒い何かが彼を突き動かしているということである。つまり、本書は<骨>の物語であるのだが、<骨>のことを知れば知るほど、読者は彼を理解するどころか、彼が物語世界の中で、いかに異質な存在であるかを思い知ることになる。

 町の真ん中を流れるどぶ川の周辺には戦前から朝鮮人がたくさん住んでおり、独特の雰囲気のなかで育った子供たちのなかには大人になっても相当な悪事を働くものもいるのだが、かれらが手の届くところにあるありふれた欲望を満たすのに汲々としているのに対して、<骨>はまったくちがった次元に立っているのだった。

 じっさい、本書のなかには凶暴で残忍な性格の梁兄弟や、こと金に関しては非道なほどに強欲な岩田など、できれば関わりたくない人物、裏の世界で生きる者特有の、どこか危ない匂いを漂わせる人物は何人も出てくるが、彼らの行動や思考が、恐ろしくはあるがそれでもまだ私たちに理解できる範囲のもの――たとえば、家賃を滞納しているから、有無も言わさず部屋から追い出してしまったり、妹にちょっかい出そうとしていた男を車で轢き殺そうとしたりといった、いっけん過激で無茶苦茶なように見えても、そこには悪人なりの論理があり、それは言ってみれば、いかにも人間らしい欲望に駆り立てられた行為であったりするのに対して、<骨>がしでかしたとされるさまざまな報復は、単純な差し引き勘定や因果関係で計算できるようなものではない。

 ふつうの人間が手を出す、ありふれた欲望が何を指しているかと言えば、本書の場合、とくに色濃く表現されている性欲、ということになる。ここでひとつ重要になってくるのは、幼少の頃の<骨>が、体のあちこちに膿のたまった出来物ができてしまうほど不潔な子どもであり、それが災いしてペニスを半分切除しなければならなかった、ということであろう。つまり、<骨>は生殖行為に関しては不具同然であり、誰もがごくあたりまえのものとして処理している性欲にどうしても手が届かない次元に、不本意ながら立たされてしまっているのである。

 本書のなかで、登場人物たちはさまざまな理由でセックスをする。純粋な恋心から、なかば脅されるようにして、あるいは自分でもよくわからない衝動から――こと<骨>に対して特別な尊敬にも似た感情を抱いている涼一でさえ、けっして例外ではない。だが、ただひとり<骨>だけは、そうした世界からかけ離れた場所にいる。しかも、良い意味で突き抜けているわけではなく、まるで本来なら性欲として処理されるべき欲望が、出口を求めてとぐろを巻いているかのような、そんな何とも表現しようのないどす黒く鬱屈した感情が、彼に関する「悪い噂」となって匂いたっているのだ。こうした性に関する歪んだ感情、とくに、自身がもつ性のシンボルへの生々しい感情は、本書に収録されているもうひとつの作品『宵闇』のなかにも色濃く反映されている。

 <骨>はかつて、中学生だった自分の妹に売春まがいのことをさせていた。その当時からすでに男好きするような雰囲気をかもし出していた妹に、町の男どもは股間をふくらませて<骨>の家に通っていた。そんな健全な男たちを傍目に見ていた<骨>が、そのとき何を思い、どのような感情をためこんでいたのか――その得体の知れない感情にぜひ戦慄してもらいたい。(2004.03.05)

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