【光文社】
『地下室の手記』

ドストエフスキー著/安岡治子訳 



 自意識とは、自分という存在が何を思い、どのような考えを持っているのかをしめす単語であるが、この「自分」とは何かという命題を考えるさいに重要なのが、他者の存在である。言うまでもないことではあるが、他人がいなければ、人は自分を認識することができない。自分以外の誰かと接し、自分と他者との違いや、あるいは似ているところを比較検討することによって、はじめて自分という存在が浮かび上がってくる。自意識とは、あらかじめ自分の内側に確固として存在するものではなく、自分以外のあらゆる「他」との関係性によって明確にされていくものである。

 ところで、この自意識という言葉がしばしば「過剰」という表現とセットになって使われることが多いのは、おそらく大多数の人たちが自意識というものについて、あたかもそれが生まれたときから自分に備わった性質であるかのように思い込んでいるか、あるいは自分の性質はこうであるという強い思い込みに囚われてしまっていることを端的に示すものだと私は思っている。じっさいには自分の考えていること、思っていること、話す言葉や書く言葉のほとんどが、他の誰かの受け売りだったり引用だったりするもので、純粋に自分の考えや言葉などというものは存在しない。感情でさえ、じつはそうした言葉や表情によって後天的に喚起されるものだという脳科学の事例もあるくらいで、他人が自分のことをどう思っているのかを過剰に意識する「自意識過剰」というのも、本来的には矛盾をはらんだものだと言うことができる。

 自分が他人にどう見られているかを異常に気にするというということは、その「見られ方」が、自分が本来こうだと思い込んでいるそれと大きくかけ離れている、という意識があるからこそのものだ。つまりそこには、自分はこうであるべきだ、自分はこうであるはずだという、強烈な自己認識がある。今回紹介する本書『地下室の手記』は、そんな強烈な自己認識を何十年もこねくり回してきた、ある中年男性の話であるが、そもそも自意識というものがある種の幻想に過ぎないのだとするなら、そんなものを後生大事に抱えて、地下室に篭りつづけてきた彼の人生は、まったくの徒労ということになる。

 そもそも自意識のある人間に、少しでも自分を尊敬することなんてできるだろうか?

 本書は大きくふたつの章で構成されており、最初の「地下室」という章では、元官吏だった語り手の男の独白めいた言葉がひたすら続いていく。男の言葉はおよそあらゆるものに対する怒りや憎しみに満ちており、そうしたもののいっさいを皮肉り、拒絶せんがために、社会とのかかわりを絶って地下室のなかに閉じこもっているという状況がかろうじて見えてくる。次の「ぼた雪に寄せて」という章で、語り手が今の状況に陥ることになった過去のある出来事が綴られているが、こうした内容を把握してまず思ってしまうのは、たとえそれが無駄なことだとわかっていながら、それでも抱え続けずにはいられない自意識というもののやっかいさである。

 かつて役人でありながら、遠い親戚が残してくれた遺産を手に入れたことで役所を退職し、「この穴倉のような部屋に引き籠もった」語り手は、自分が「何者」にもなれなかったと自分を評している。この語り手の人物像を決定づけるための「何者」というのは、厳密には二種類考えられる。ひとつは自分が「こういうふうになりたい」「こういうふうであるべきだ」と意識してふるまうことで成立するものであり、もうひとつが、自分の意思とは関係なく、周囲の人々が「こうであるはずだ」という思い込みによって成立するたぐいのものである。本書を読み進めていくとわかってくることであるが、この語り手の中年男性は、常に後者の「何者」かになってしまうことに対して、意固地なまでに反抗しつづけているところがある。

 とくに理性や合理性というものに対する語り手の反感は強く、人はかならずしも理性だけでものを考え、行動するわけではなく、たとえ自分自身がそのことで不利益をこうむることになったとしても、あえてその道を選ぶこともあるのが人間というものだとうそぶいてみせる。こうした語り手の不条理な言動は、たとえば日常のちょっとした不快な出来事に対して異常なまでのこだわりを示し、自分を少しでも軽蔑し、無視していると感じた相手に対して、どうにかして自分の存在を認めさせてやろうと執念を燃やしたりするという態度に出てくるのだが、そうした彼の歪んだ努力が実を結ぶことはなく、たいていは相変わらず無視されたり、以前以上に軽蔑されたりするのがオチである。

 何かに対して、後先考えずに突っ走ることができず、何をやっても中途半端で終わってしまう彼の存在は、どうしようもなく情けないものであるが、まったくの馬鹿でもないがゆえに、そんな自分の情けなさを誰よりも自分自身がもっともよく理解しているという状況が、さらに語り手を苦しめている。嫌われるのであれば、とことんまで嫌われてやろう、そしてそのことに何の痛痒も感じない、本当の悪人になってやろうという意思を、彼はどうしてももつことができずにいる。だが、それはけっして自分が理性をはたらかせ、自分が損をしたくないからそうしている、などという理由であると認めることもできない。言ってみれば、彼のかかえている怒りや憎しみは、何よりもそんな自分自身へと向けられているものなのだ。

 自意識とは、何より他者との接触によってはじめて確立されるものだと書いた。誰からも嫌われ、無視されてきた語り手は、しかし地下室に閉じこもることによって、そこから「何者」かになるあらゆる道をみずから閉ざしてしまったことになる。あるのはただ、自分が「こうあるべき」という姿だけであるが、他者から切り離されてしまっている以上、それはどこまでも自己中心的なものとなっていく。それがまぎれもない事実ではあるのだが、本書の語り手の場合、どこまでも身勝手な自分を構築しきれないこと、けっして「何者」にもなることができないという強い自意識が彼を縛りつけている。

 他ならぬ自分自身のことでありながら、どこまでも自分を肥大させていかない理由――それを手記という形で綴ったのが、「ぼた雪に寄せて」という章である。彼はその過去のなかで、ある女性の心を傷つける行為に走った。しかもそれは、周囲の人たちが自分に対して行なったのと、まったく同等のものなのだ。他人を見下し、軽蔑しながら、同時にそのことをこのうえなく後悔し、いつまでも罪の意識にさいなまれている語り手――その痛みにどれだけ共感できるかが、本書の読みどころであると言うことができる。

 本書の語り手はどうしようもない嫌な人間ではあるのだが、そのじつその「嫌な」部分が、まぎれもなく自分のなかにもあることを、意識せずにはいられない。嫌なこと、都合の悪いことなど、さっさと忘れて生きていければ、どれだけ気が楽だろうか。だが、それがどうしてもできないまま、いつまでも自分の罪をひきずって生きていくというのは、ある意味でこのうえなく不器用な生き方でもある。はたしてあなたは、この作品の語り手に軽蔑を示すだろうか、それとも共感を示すのだろうか。いずれにしても、それは私たち人間にとってどうあっても切り離せない、大きな命題をふくんでいることだけは確かである。(2014.09.17)

ホームへ