【河出書房新社】
『海底バール』

ステファノ・ベンニ著/石田聖子訳 

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 一時期ネット上で話題になったもののなかで、「全盛期のイチロー伝説」というものがある。イチローとは、言うまでもなくプロ野球選手のイチローのこと。日本ではもちろんのこと、アメリカのメジャーリーグにおいても驚異的な打率を叩き出している彼の「全盛期」がどんなものだったのかが書かれたものであるのだが、その内容は「3打数5安打は当たり前、3打数8安打も」「9回裏100点差、チームメイト全員負傷の状況から1人で逆転」「打席に立つだけで相手投手が泣いて謝った、心臓発作を起こす投手も」といった、現実にはありえないネタのオンパレードとなっている。

 このネタがどういった経緯で発生したのかは不明なのだが、ひとつだけ言えることがあるとすれば、何かを過剰に表現するのは思いのほか面白いものだということである。「全盛期のイチロー伝説」にかんしては、もともと凄い選手であるイチローだからこそ通用するネタでもあるのだが、その凄さを過剰に表現した結果生じるのは、凄さを通り越した一種の笑いの感覚である。一試合に3打席あれば、3安打が最高点であるはずなのに、それを上回る安打を生み出してしまうイチローの全盛期――それは、現実には存在し得ない「全盛期」ではあるが、もしそれがフィクションの世界、それも、文字という表現形式で世界を構築していく小説の世界であれば、いくらでも成立させることが可能である。しかもそこに、誰もが納得する理由づけをしてやる必要すらない。

「コッピは最強だ。考えてもみたまえ。一時間ぶっ続けで性行為を行った後で自転車に飛び乗り、優勝までしてしまうのだから」

(『スプレンドール座、ポルノの日』より)

 とある町の海岸を歩いているときにすれ違ったエレガントな中年紳士に興味を掻き立てられた一人称の「ぼく」が、その紳士の後を追いかけて海中へと飛び込んだところ、その海の底に一軒の「バール」が建っており、そのなかでは種々雑多な客たちが、それぞれ物語をひとつ披露するために集まっていた――まるでルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を髣髴とさせるような設定を用意したうえで、二十三の短編を紹介していく本書であるが、それらの短編を大きく特徴づける要素のひとつとして挙げられるのが、「全盛期のイチロー伝説」のようなオーバーな誇張による笑いの感覚である。

 ひとたび異常気象が起これば、地上では卵を外に置いておくだけでオムレツができあがるほど暑くなったり、七メートルを越すような積雪になったりするし(『狂った気象の年』)、ふたりの男が自転車をめぐって勝負をすれば、震度八の地震が起こったり、アルプス山脈に穴を開けたりするほどすさまじいものとなる(『アキッレとエットレ』)。たかだか道路を横断するだけで何度も自動車にはねられ、それでもピンピンしている老人が登場したり(『道路を横断する老人の冒険』)、二百六十キロのスピードが出るにもかかわらずブレーキを外したバイクに乗って、止まろうとするたびに事故を起こすバイク乗りが出てきたりもする(『プロント・ソッコルソとビューティー・ケースのラブストーリー』)。そこにはある意味で、星新一のショートショートを思い起こさせるような要素があるのだが、本書の面白さはおもにそのストーリーの部分ではなく、まるで比喩表現をリアルな世界にそのまま持ってくるかのような、現実と幻想との乖離、あるいは摩擦によって生じる面白さだと言える。そういう意味では、本書はむしろクラフト・エヴィング商會の『ないもの、あります』的な面白さに近いものがある。

 物語を語る面々もだいぶ変わっていて、老若男女、人種の別なく幅広い人たちがいるのはいいとして、中には小人や人魚、透明人間、さらには犬やその体に寄生しているノミまでもが語り手として登場するあたり、あきらかに現実を逸脱した世界を想定したものがある。そもそも海底に「バール」があること自体が常軌を逸していると言えるが、店内のインテリアにしても、アンティーク調だったり異国風だったり、あるいはモダンだったりとどこかちぐはぐで、まるでどこにでもありながらどこにもない場所を演出しているかのようであったりする。まさしく、なんでもありな世界における、なんでもありな物語集――それこそが本書の本質となっている。

 ところで、本書の「訳者あとがき」によれば、「バール」というのは英語の「bar」、つまり酒場と訳される店のことを指しているが、イタリアではたんに飲食する場というだけでなく、種々雑多な人たちが集う社交の場として、独自の文化と伝統を育んできた特殊性を備えているとされている。なるほど、それはたしかに著者の出身地であるイタリアらしい要素であり、だからこその物語の舞台としての「バール」という位置づけではあるのだが、それ以上に私が思うのは、こうした大衆の酒場において、極端に誇張された物語ほどふさわしいものはない、という点だ。自慢話にしろ、不幸な話にしろ、人はときに、その体験を本来あったものより大きく膨らませて語りたくなるときがある。それがアルコールをたしなむ酒場であれば、なおのことだ。そして本書で語られる物語では、その膨らませ方が極端になりすぎたがゆえに、本来とはまったく異なる、別の物語として独立してしまったかのような不思議な感じがある。

 SFもあればミステリーもあり、またポーを思わせるホラーがあれば、一発芸のようなショートショートもある本書の物語では、たいていの場合、自身の現実的な常識を頑なに固執しつづけるような人物に対しては、ほかならぬその彼が馬鹿にし、否定してきた幻想の産物によって手ひどいしっぺ返しを食らうというのがお約束にやっている。『マチュ=マロワ』や『面汚しの妖精』といった短編がそれにあたるが、かといって正直者や心がきれいな者たちが、かならずしも幸せを手に掴むというわけでもないところが、なんとも皮肉めいていたりする。世の中はけっして単純ではなく、運命はたいていは気まぐれである。であるなら、この複雑で気まぐれな世界のなかには、けっしてリアルという一面だけではとらえられない――それこそ海底にたたずむ「バール」みたいなものがあったとしても、あるいはおかしくはないのかもしれない。はたしてあなたは、本書が見せる物語のなかに、どのようなメッセージを受け取ることになるのだろうか。(2013.11.15)

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