【文藝春秋】
『ばくりや』

乾ルカ著 



 以前紹介した新城カズマの『サマー/タイム/トラベラー』の書評の冒頭で、比較的最近出版された時間跳躍ものの小説は、過去へのタイムトラベルが大半であると書いたが、その背景にあるのは、今の自身の境遇に強い不満をもつ者が、過去の自分を説得するなり、時間を巻き戻して人生をやりなおすなりすることでその現状を変えたいという願望である。もしあのとき、別の選択をしていたら、というのは、ある程度人生経験を積み重ねてきた者であれば、誰しもが多かれ少なかれ考えることではあるし、だからこそ過去への時間跳躍は、「たった一度きりの人生をどう生きていくか」という人間ドラマを展開するのに都合のいいテーマでもあるのだが、この手のテーマの問題点は、人によっては何度過去へ時間を遡ってもまったく意味がない場合がある、ということである。

 たとえば、生まれつき目の見えない人が、それゆえに人生においてひどく不自由していたとしても、過去へ時間跳躍したところで目が見えるようになるわけではない。過去の母親に自分を産まないようにする、という手はあるかもしれないが、そんなことをすれば自分の存在自体が消えてしまう。彼のかかえる問題を解決するには、彼自身のもつ「目が見えない」というハンディキャップをなんとかしなければならないのだが、今回紹介する本書『ばくりや』は、言ってみればそうしたハンディキャップをもつ人たちのための「人生やりなおし」をテーマにした作品である。

『あなたの経験や技能などの「能力」を、あなたにはない誰かの「能力」と交換いたします。まずはご来店ください』

 そのタイトルにもなっている『ばくりや』の「ばくり」とは、北海道の方言である「ばくる」から来たもので、「交換する」という意味をもっている。北海道S市の、時代に取り残されたかのような小さな路地の奥にあるその店の店主は、誰かと誰かの「能力」を交換するという、なんとも不思議なことを実現するのだが、そこにやってくる人たちは、一様に自身の「能力」を、たとえば「目が見えない」というハンディキャップと同等なものと感じとっており、その能力から解放されることで、それまでは実現できなかった新たな人生を歩みたいと願っている者たちばかりである。そしてここで重要なのは、彼らが自身の「能力」をハンディキャップだと考えているのは、きわめて主観的な判断によるものだという点である。

 全部で七つの短編を収めた本書のなかで、その点をもっとも象徴するのが「逃げて、逃げた先に」という短編で、ここに登場する三波敏行は「女に異常に好かれる能力」の持ち主である。容貌は人並みでしかなく、背も高くないのに、なぜか女性に好意をもたれてしまう――それは私のような冴えない男にしてみれば、喉から手が出るほど欲しい「能力」であるはずなのだが、当の本人はその能力のせいで苦悩の多い人生を送っていると感じており、じっさいに現在、ある女性に異様なまでに執着され、どうやっても縁を切ることができずにいる。

 登場人物たちが目にすることになる『ばくりや』の宣伝文句には、「経験や技能などの「能力」」とある。つまり、本書でいうところの「能力」とは、おもに後天性のもの――自己努力や長年の研鑽によって身につけた能力という意味合いが含まれている。にもかかわらず、能力交換を希望する者たちの能力は、「移動先で必ず荒天になる」「勤務先の会社が必ず潰れる」「キリのいい数字をとる」など、おもに先天的なもの、当人の自己努力とは関係のない、良くも悪くも「天与の才」に近いものばかりである。

 そして交換することになる能力については、あらかじめ知ることはできないし、また一度交換した能力を元に戻すこともできない。それゆえに本書の面白さは、登場人物たちがどのような「能力」を得るのかという点はもちろんのこと、「能力」の交換によって生じる意想外な副作用が、登場人物たちをどのような結末へと導くことになるのか、というオチのつけかたにかかってくるのだが、ほぼ間違いなく、著者は登場人物たちの交換元となる「能力」が後天的なものか、あるいは先天的なものかについて――言い換えるなら、その能力が自己努力によって身につけたものか、もともと身についていたものかという違いについて、かなり意識的なところがある。

「能力は、だまし絵みたいなものです。見方を変えれば老婆が若い女にもなります」――(中略)――「けれども、大抵は一方しか目に入りません。老婆の面しか見えなければ、それは能力ではなく欠点と認識されてしまう」

(「さよなら、ギューション」より)

 盲目であることは、たしかに大きなハンディキャップではあるが、そのことによって、逆に普通の人には見えない何かが見えてくるものもある、ということ――本来であれば自身のたゆまぬ努力によって身につくはずの「能力」が、あらかじめ備わっているというのは、基本的にはありえないことであるはずだ。ではどう考えるべきなのかといえば、天や神といった何かから貸し与えられたもの、ということになる。たとえ老婆の面しか見えなかったとしても、それが天から貸し与えられた「能力」である以上、その力で何かを成すことを期待されているはずである。そして、そんなふうに考えたとき、その「能力」を安易に交換した登場人物たちがたどる運命がどのようなものになるのかは、押して知るべしであろう。

 ところで、本書に出てくる「ばくりや」なる店について。もちろん、フィクションである以上「能力」の交換などじっさいにできるはずもないし、また本書で扱われる「能力」についても、リアルではほぼありえないものであるが、そうした設定だからこそ生きてくるオチというものがある。じっさい、「ばくりや」は通常の経済理念からはことごとく外れた存在であるし、そもそも何のために能力交換などを宣伝文句としているのかも不明であるが、少なくともその本質について、けっして良いことをしているわけではない、とそれとなくほのめかすような発言があることを、これから本書を読もうと思っていらっしゃる方がいれば、心に留めておくといい。そのことで、本書の最後につけられるオチもふくめ、私たち人間の短慮さや盲目さというものを、独特のユーモアで表現した本書の巧みさが、きっと見えてくるはずである。(2012.04.17)

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