【講談社】
『ヴァイブレータ』

赤坂真理著 



 いつの頃だったかは忘れてしまったが、数年前に世間を騒がせた、連続幼女殺害事件の犯人に関する特集番組が組まれたことがあった。番組では、犯人が多重人格障害なのではないか、という仮定にもとづいて話が進められ、「普段表面に出ている自分」のほかに、「凶悪な犯罪者」や「すべてを冷静に見つめているもうひとりの自分」などといった複数の人格が、図入りで説明されていたのだが、そもそも複雑な人間関係で成り立っているとも言えるこの世の中で、たったひとつの人格で生きている人間などいるのだろうか、と正直私は思ったものだった。私のなかにだって、目につく人間すべてをぶっ殺してやりたいと思っている凶暴な自分もいるし、すべてを冷めた目で見ている自分の存在も感じることがある。時と場合と相手によって、私たちは常に複数の人格を、仮面を取りかえるかのように使い分けているし、口に出している言葉と心の中でつぶやく言葉が違っていることなどしょっちゅうだ。とするなら、この連続幼女殺人犯である彼と私たちとの違いは、じつは非常にわずかな差でしかないのではないだろうか。それを「多重人格障害」などという名前の病気で括ってしまうこと自体、何か間違っているのではないか、と思わざるを得ない。

 本書『ヴァイブレータ』に出てくる早坂玲という女性ジャーナリストの頭のなかでは、しょっちゅういろいろな人間の声が聞こえてくる。それはたとえば「あたしが任意の応答をしてたり、本当は感動したと言いたかったことや、ふざけんじゃねえと言いたかったけど客観性を装ったり相手の面子を立てたりして抑えた場合のことが思った通り実現されたり」するときの声で、ようするに自分自身の思考が生み出した想像上の声なのだが、際限なく膨らんでいく思考の声たちによって不眠症になってしまった彼女は、アルコールや、過食したのちにそれらを吐き出してしまう「食べ吐き」という行為に依存することで、なんとか今の生活を維持しつづけている。たが、当然のことながらそれらの行為は根本的な解決をもたらすものではなく、どころか、そのうちにそれらの声に混じって、ときどき自分のコントロール下にない声が聞こえてくるようになってしまうのである。

 90年代に登場した新しい世代の小説家たちが、ほぼ共通して持っていると思われるテーマのひとつに、固定した自我からの脱却、というものがある。自分が他の何者でもない、確固たる自分自身である、という自覚――しばしば自立とか精神的成長とかいった言葉とともに語られる、ユニークな存在としての自分に対して、著者をはじめとする多くの小説家が疑問を抱いているように思えてならない。それは、あらゆるものが大きく変化していき、それまで不動と思われてきた価値観がいとも簡単に崩れてしまう今の世の中で、自分の心の中だけに不動のものを要求されることに対する疑問であり、けっして一定ではありえない、いくらでも変化することのできる自我の存在を認識することでもあるのだ。

 少なくとも、早坂玲は自分の語る言葉が、自分の外から集めてきた言葉を切り貼りして作り出したものであり、自分のなかから生み出された言葉などどこにもないことを自覚している。あるいは、このように言うことができるのかもしれない。あらゆる自分の思考や感情をむりやり言葉で定義づけすることによって、彼女は言葉にできない何かをどこかに置き忘れてしまっているのだ、と。彼女は本書のなかで、見知らぬトラック乗りの青年といきなり性行為におよぶことになるのだが、それは他ならぬ彼が「好きでない場所に居続けることを、ごく自然なこととして拒否」することができる人間であり、その彼に身をあずけることで、彼女はたしかに言葉の呪縛から解放されようとしているのだ。

 短い起毛の生地のシートに、あたしは身をゆだね頬を埋める。これは彼の体。アイドリングの振動を胸で皮膚で感じながら、彼に包まれているようだと感じる。そのとき、声たちは、安心しているのだと不意にわかった。みなこの振動に、こまかな元素に分解されて言語のかたちにはなっていない。混合液体のように、あたしの中で溶けて体内を巡っている。振動の中に、自分の鼓動が聞こえる。

 トラック乗りの岡部という青年は、トラックに乗っているときの自分と、トラックに乗っていないときの自分の二種類がいることを知っている。だが、それはそれとしてちゃんと普通に生活することができている。自分のなかにいる何人もの自分――それが言葉によって区分された存在であろうと、また外から借りてきたものだろうと、おそらくそれはすべて自分自身にほかならないのではないだろうか。人の肌に触れ、そのぬくもりを感じるそのとき、それを感じているのが誰なのか、といったことは些細な問題として片づけられてしまっている。ただ、その感覚を受け取ることができる、という事実さえあれば、私たちの使う言葉は、あるいは何の意味もなくしているのかもしれない。(2000.01.08)

ホームへ