【コアラブックス】
『爆笑トリビア解体聖書』

矢部正範著 



 かのウンベルト・エーコが書いた『ウンベルト・エーコの文体練習』は、さまざまな古典文学をパロディ化した作品集であるが、そのなかで聖書のことが「全編アクション巨編」ものとして紹介されているのを知って以来、宗教的な意味合いとは関係なく、『聖書』にはいったいどのようなことが書かれているのか、ということについてはずっと気になってはいた。聖書というと、キリスト教の正典というイメージが強く付きまとうものであるが、そうしたイメージを一度とっぱらい、あくまでひとつの読み物として聖書をとらえたとき、おそらくウンベルト・エーコも気づいたとおり、そこには私たちの想像以上に奇想天外で豊かな物語が眠っていそうだという確信があるからである。

 「トリビア」という名前がついているが、フジテレビの番組「トリビアの泉」とはあまり関係ない。本書『爆笑トリビア解体聖書』は、聖書にじっさいに書かれているおかしなこと、ヘンなことばかりを集めてきた本である。もっとも本書の場合、読み物としての面白さを重要視しており、なかには聖書の内容をずいぶんと曲解してとらえた意訳の部分、あるいはこじつけのように思える要約も多いが、意訳の場合は意訳、正確な引用の場合は正確な引用とはっきりと区別できるようにしてあり、さらにその出典がすべてあきらかにされている。ゆえに本書に書かれている、いっけんすると信じがたいような聖書の関する知識は、すべて聖書のなかに書かれていることであり、聖書を最初から最後まで読んだことのある人であれば、別に「へぇー」と言うほどのトリビアではないのかもしれない。むしろ問題なのは、世界でもっとも読まれているはずの『聖書』であるにもかかわらず、そのなかに書かれていることが「トリビアの泉」的な知識として立派に成立してしまう、という事実のほうだろう。

 本書に登場するヤハヴェやイエスは、キリスト教の唯一神やその御使いとして私たちのなかに広く浸透している神聖なイメージとはかけはなれた、非常に人間くさい存在として描かれている。嫉妬深く、ささいなことですぐ「死刑」を連発したり、極端な男尊女卑の思想をもっていたり、あまり深い考えもなく神罰をくだすおそろしい一面がありながら、そのくせ一介の人間であるヤコブにケンカで負けたり、モーセにやすやすと説得されたり、なぜかチンチンの皮が好きだったりする(割礼にこだわる)神のイメージは、むしろギリシア神話をはじめとする多神教の神のイメージが色濃くあるし、イエスにいたっては、その言動不一致ぶりや、詭弁を弄して煙にまいたり、とくに空腹時に過激な行動をとったりするその姿は、聖人というよりは、どこかの新興宗教の我儘な教祖みたいな感じさえする。それらの聖書の記述は、たしかに私たち読者の大半が知らなかった部分であり、著者もまえがきにおいて、そうした聖書の「影」の部分ばかりをとりあげた、偏った解説書であると明記している。本書に爆笑できる要素、それは、私たちが世間一般のイメージとしてもっている聖書、しいてはキリスト教という有名な宗教に対する敬虔で神聖なイメージと、その正典である聖書に現実として書かれている事柄を素直に読み解いた結果、生じてくるギャップとの大きさに尽きる。

 私はけっして宗教に明るいわけではなく、それゆえにキリスト教におけるその信仰と聖書との関係性について、何かを語れる立場でないことは重々承知しているので、ここでキリスト教のことについて触れるのは避けるが、ひとつだけたしかに言えるのは、あくまで聖書に書かれていることがキリスト教の正しい教義であると定義したうえで、現状のキリスト教徒の数々のおこないがいかに聖書の記述とかけ離れたものであるかを指摘して笑いをとる本書の存在が、聖書の存在をより身近なものにする役割をはたしている、ということである。そして、それは同時に、聖書から宗教性を廃し、純粋に一冊の本としての姿をさらけだすことにもつながっている。

 よくよく考えてみれば、印刷技術の発達と紙の普及により、本が世間に溢れるようになる以前、本は貴重な知的財産のひとつであり、所有することはもちろん、ラテン語を読み書きできる人さえわずかだった時代がほんの以前までつづいていたわけだが、そんな時代に聖書をもち、それを読み解くことのできた人というのは、言うまでもなく特権階級に属する人たちであり、そんなごく一部の宗教家たちが、キリスト教の教えを広めようとしたときに、その正典である聖書の内容をそっくりそのまま伝えようとしたら、たしかにろくでもないことになりそうに思える。本書の中で著者は、信者たちによって聖書の都合の悪いところは隠蔽されたり、無理やりその意味を曲解したりしてきたと書いているが、本書のような作品におおいに笑わされるという事実が、いかに聖書の本来の姿から私たちが引き離されてきたか、そのへだたりの大きさを感じさせるものとなっているのだ。

 そして、そんなふうに考えたとき、本書の中で語られている「キリスト教徒があまりにも聖書の教義を無視するようなことをつづけた結果、神に見放されたのでは」という皮肉は、たんなる爆笑トリビアであることを越えて、あらためて『聖書』とはどういうものであるのか、ということの問題定義にもつながっていくのである。

 識字率が低く、読み書きそのものが特権であった時代とは異なり、今や聖書は世界中でもっとも読まれているはずの書物である。であれば、たとえば本書のような形の「聖書解説書」――それこそ場合によっては焚書あつかいされかねない本書の存在は、少なくともある一部の人たちによってその知識が占有されているような時代と比べれば、確実に世の中はよくなってきていると言えなくはないだろうか。そして、もし本書を読むことで聖書そのものを読んでみようかと思うような読者が出てくるとすれば、それはまさに本書最大の功績だと言っていいだろう。(2005.06.12)

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