【早川書房】
『文章探偵』

草上仁著 



 たとえば、同じつくりの家であっても、そこに住む人によって微妙に異なる歪みが生じてしまうように、あるいは、長く愛用してきた物に自然とその使い手のクセがついてしまうように、私たちが書く文章にもその人固有のクセがあらわれてしまうものである。有名なところでは、アメリカのメジャーな作家スティーヴン・キングが、リチャード・バックマンという別のペンネームで作品を出していたにもかかわらず、両者の文体の類似点や共通する固有名詞などの特徴から、熱烈なファンに同一人物であることが見破られたというエピソードがあるくらいだ。

 私がサイトに載せている書評にしても、私ならではの言い回しや表現というものが出てきている。さすがに書評を書きつづけて何年にもなるので、ある程度自覚している部分もあるのだが、それでもある方に「まぎれもない」「まぎれもなく」という表現が多く含まれている場合は、本当にその本が面白かったと思っているのではないか、という指摘を受けたときは、書かれた文章に刻印されずにいられない個性というものに侮りがたい力があることを、あらためて思い知ったのをよく覚えている。じっさい、その指摘はあながち的外れとは言えない部分があったのだ。

「実際」を「じっさい」とひらいて書くかどうか、「見出す」か「見いだす」か、句読点の打ち方はどうか。もし書き手が煙草にこだわりをもっているなら、「吸う」ではなく「喫う」と表現するかもしれないし、ネット上では(笑)の使用頻度や顔文字をどのくらい使うのか、といった部分にも、それぞれ個人差が出てくるだろう。より詳しく分析していけば、書き手の出身地や性別、年代、あるいは性癖や趣味などの情報さえ掴むことができるのではないか――本書『文章探偵』は、まさに書かれた文章から書き手の姿を浮き彫りにすることを得意とする探偵が活躍するミステリーだと言うことができる。とりあえず、表面上は、であるが。

「年齢や職業によって、用語には癖があります。法律関係者は『遺言』を『イゴン』と読みますし、医学関係者は『頭蓋骨』を『トウガイコツ』と読みます。IT関係者は『連絡する』ことを『連携する』と言いがちですし、学校関係者は『児童』という言葉を使いたがる。――」

 本書に登場する左創作はミステリー作家であるが、ここ最近は作家業よりも、それ以外の仕事、たとえば小説創作講座の講師といった仕事のほうが稼ぎのメインとなりつつある、言ってみれば作家としては中堅どころに甘んじている人物である。だが、彼の「文章探偵」としての腕は、創作講座に提出される匿名の課題作品から、受講者の誰がその作品を書いたのかを特定していくという形で、冒頭からいかんなく発揮されていく。本書の大きな特長のひとつとして、左が文章をプロファイリングするさいの、徹底した論理展開の妙があることは間違いない。

 文章からその書き手の特長を導き出す手法としては、似たようなものに筆跡鑑定があるが、左の文章探偵としての手法は、手書きの文章であっても、ワープロやパソコンのキーボードによって打ち出された文章であっても関係ない。むしろ、キーボードによる文章のほうが、日本語変換のミスやタイプミスのクセなどから、より多くの情報を引き出すことができると言ってもいい。「充分」と書くか「十分」と書くか。「ミステリー」か「ミステリ」か「ミステリィ」か。ギリシャ文字のΦ(ファイ)という記号を、「小学校で習った」という修飾語をつけて書いた文章から、その書き手が算数の集合論を小学校で習った世代、昭和三十年代から四十年代の生まれであると特定していく過程などは、なかなか鋭い指摘だと思わせるものがある。

 事件は、彼が二次審査の選考委員を務めている「トパーズ・ミステリ新人賞」に絡む形で起こる。賞に応募されてきた作品に書かれているある殺人事件と、その内容が非常に似通った殺人事件が、現実に起こってしまうというものである。しかも、書き手の異なるふたつの応募作品が、いずれも現実のひとつの殺人事件をなぞるような内容となっている。偶然の一致としてはあまりにも出来すぎているものを感じた左は、その作品が最近彼のもとに届くようになった脅迫状についても言及していることから、自分が受け持っている創作講座の受講生の誰かではないかと推測し、文章探偵術を進めていくことになる。

 はたして、作品の応募者は現実にバラバラ殺人を犯した殺人鬼なのか、だとしたら、その目的は何なのか。脅迫状と殺人事件との関連性は? なぜ内容の似通ったふたつの作品が応募されてきたのか? 謎がさらに謎を呼ぶ展開で進んでいく本書であるが、この事件における左の、「文章探偵」としての行動を読み進めていくうちに、読者はあるいは、何らかの違和感を覚えることになるかもしれない。それは、彼が他ならぬ「文章探偵」であることに対するこだわり、とも言うべき違和感である。

 たとえば、本書には随所に太字の文章が挿入されている。これは、作中の人物によって書かれた文章であることを示しているのだが、それらの文章にはかなりの高確率で誤字が見受けられる。もちろん、それらの文章を書いた人たちはプロではないし、自分以外の誰かによって文章を校正されるわけでもない立場にあるのはたしかだが、仮にも文章を書くことを志した人たちが、それも賞に応募するために書いた文章の誤字脱字に、これほど鈍感でいられるだろうか、という疑問が出てくる。左の文章探偵術は、たしかに徹底した論理によって展開されていくものであるが、その論理が理にかなっていればいるほど、上述のような指摘によって生まれてくる違和感は増大していく。じっさい、左はタイプミスによる特長から書き手がローマ字入力を用いているか、あるいはカナ入力を用いているかを指摘していくが、これらの情報が有効になるのは、相手がある程度限定されていること、そして何より、相手がどちらの入力方法をとっているかを、あらかじめ知っておく必要がある。

 そう、左の文章探偵術は、あくまで統計的な確率論の積み重ねであって、けっして決定打となることのない探偵術である。じじつ、賞に応募されてきた問題の作品の書き手について、彼が特定することができたのは物語のずっと後、文章以外の情報を集めた結果であるし、そもそも自分のもとを去っていった妻の葉書の文章については、その心理を読み解くことができずにいる。

 いったい、文章探偵とは何なのか、左はなぜ文章探偵術にこだわるのか、彼がときどき漏らす、文章探偵を「演じる」とは、どういうことなのか。事件の全容を解決するのに決定打とならない文章探偵を、あえて演じつづける左創作という、ミステリーとしては少なからず不自然な構図には、彼の文章探偵術が人の心にまで踏み込むものでないのと同じように、主人公たる彼の心理を見えにくくするものがあると言ってもいい。どこか腑に落ちない違和感――そこに気がついたとき、読者ははじめて、本書でおこった事件の真相をまのあたりにすることとなる。

 文章にはたしかに書き手のクセが反映される。だが、私自身が書評を書くさいにそうしているように、文章は一度書いてそれっきりになるわけではない。およそデビューをめざす小説家予備軍であればすべらかく、応募する作品については何度も見直し、誤字脱字といったつまらないミスによってマイナス要素を選考委員に与えないよう配慮するものである。そうした人間としての心理を決定的に見落としてしまっている左の文章探偵術が、物語をどのような結末に導くことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたいものである。(2006.08.02)

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