【文藝春秋】
『文学を探せ』

坪内祐三著 



「読んだ本はすべて褒める」――どんな本にも必ずひとつはあるはずの光るものを取り上げ、紹介していくという方針のもとに、私はこれまでそれなりの数の本を読み、書評を書きつづってきた。「八方美人宣言」を読んでいただければわかると思うが、こうした方針はサイト開設当初からかたまっていたものではなく、ある特定の作家ばかりを贔屓することのないよう、できるだけ広く浅い読書を心がけよう、といった程度の気持ちがあって、そこから今のような方針へと変化していったのが本当のところである。そして、その根底にあったのは、あくまで作品のみを評価すること――安易な作家論に陥ることだけは避けたい、という意図だったのはたしかだ。
 だが、こうした活動を続けていくうちに、どうしてもその作者自身について触れないことには書評として成立しなくなる、という事態が、いくつかの作品については出てくるようになった。作品がある以上、その生みの親である作者がいるのは当然のことであるが、一度この世に誕生した以上、その作品は独自の生命を持ち、読者のあいだで読まれていくはずだ、という気持ちが、私の中にはあるのだ。

 これはいったい、何を意味するのだろうか。

 その答えの重要なヒントとなるのではないか、と思われる1冊の本がある。それが、これから紹介する本書『文学を探せ』であるが、たとえば本書の次のような文章から、私は文学というもののひとつの本質を読み取るのだ。

 究極に言えば文学は「人」と「人」との「交通」すなわちインターコースの中から生まれる。――(中略)――「交通」に「愛」がなければ良い生命体は育たない。もちろん文学という生命体の場合、「愛」でなく「憎悪」であっても、ベイビーはかなり面白い育ち方をする。そしてこの場合の「人」というのは置き換え可能な記号Aや記号Bではない。あくまで個有名を背負った「人」である。

 本書のタイトルが示すように、著者である坪内祐三は文学を探している。その行為は、必然的に「文学とは何か」という命題にもつながっていくことになるのだが、その対象はけっして小説という1ジャンルにとどまることはない。たとえば、江藤淳の追悼として書かれた、江藤家の庭師の談話文の中に、たとえば、矢作梓が収めた『年表で読む二十世紀思想史』の中に、たとえば、比較文学者である鶴田欣也の日本文学研究書の中に、たとえば、学習院大学文学部における篠沢秀夫のフランス文学講義を記録した本の中に、著者は「文学を感じた」と語る。

 文学とは何か、という究極の命題――だが、著者はけっして普遍的な意味としての「文学」を探しているわけではない。著者はあくまで自分にとっての「文学」とは何なのか、ということを自問していくだけである。それは、「私小説」という言葉に対する、こんな文章からもうかがえる。

「私小説」とは何か。
 考えれば考えるほどわからなくなってくる(私は、いずれこの連載の中で、きちんとその謎を解き明かそうと思っている)。結局、私は、今の所、「私小説」を一つの大きなジャンルというより、個々の作家の作風としてしか考えられない。例えば川崎長太郎的「私小説」や尾崎一雄的「私小説」といった風に。

 ひとつひとつの言葉をけっしておろそかにすることなく、律儀に、真摯に向き合っている著者の文章は、だからこそ重く、そして熱い。「文学は死んだ」などとしたり顔で言う者たちとは違い、著者はきっと、けっしてゆるぎない、自分なりの文学観を持ち、そして何より言葉の力を信じているのだろう。
 それゆえに、いいかげんな、その場かぎりの言葉を使う者に対しては手厳しい著者の文学観は、「記号A」や「記号B」に置き換えることのできない「人」――書き手の人柄が見えてくるような文章へと集約していく。それは、けっして自己主張とか、文章を私物化するような行為で書かれたものではなく、またたんなる技術で習得できるようなものでもない。どのように説明すればいいのかなかなか思いつかないのだが、本書はまさに、そうした人と人との関係から生まれてくる文章がいくつも紹介されているのだ。そしてそれは、本書の文章自身をとってみても、けっして例外ではない。

 そこには、文芸誌各誌の新年号に載せられる短篇小説すべてを10年ごとに読み比べようとしたり、芥川賞のことを題材として書いていながら、「こちらのほうが文学的だ」という理由で父親が起こしたちょっとした事件のことへと話題を変えていったり、前回あった大きな誤植のことから話をはじめたり、オンライン書店「bk1」で文章を書いている安原顕のことを痛烈に批判したりする、生きた著者の姿があるのだ。

 作家自身のおいたちや、そのときの作家の周囲の環境が、作品をつくるにあたってどのような影響を与えたのか、という、いわゆる作家論への批判、反発から、純粋に言葉のみをとらえていこう(より正確には、言葉を成り立たせる「差異」に着目しよう)というのがテクスト論の成り立ちである。そこにあるのは、作家の主張に代表される書き手=主体への疑問視であり、多分に科学的なその論は構造主義の土台とも言うべきものとなっていったが、著者の文学観は、そうした流れとは相反するものである。それはけっきょくのところ、世の中にあふれる数多くの文章が人の手によって生み出されていること、そして言葉というのが、そもそもコミュニケーションのための道具であることへの絶対の信頼感から生まれてくるものではないだろうか。

 まがりなりにも書評と名のつくものを書いている私であるが、そこに作者独自の人間性を認めることができたとき、それは一読者でもある私にとって、ひとつの幸福なのかもしれない。「本」と「人」とのインターコースを実現させるための書評というものに、もっと真摯な態度で臨まなければ、という思いを強くさせられる本書には、著者の文学に対する大きな想いが、たしかにある。(2002.03.02)

ホームへ