【河出書房新社】
『黒冷水』

羽田圭介著 
第40回文藝賞受賞作 

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 第三者の視点からすればじつにくだらない、些細な出来事のように思えることであっても、その当事者にとっては、それこそ命をかけるほどの重大さをもつものとして認識されていること、というものがある。私自身のことを例に挙げると、通勤のために乗る始発電車を待つ位置がそれにあたる。私はいつも同じ車両の同じドアの前に、いの一番に並ぶことにしているのだが、たまたまその場所に先客がいたりすると、まるで自分の場所をとられたかのような、妙にドス黒い胸のざわつきを覚えることになる。それが同じ人間によって連日起こされたりすると、なおさらだ。「こいつは俺の敵か?」と思ってしまうのだ。

 私のかかえるそんな思いは、相手にとってみれば理不尽極まりない、自分勝手な思い込みであるし、そもそも並ぶべき場所は他にもたくさんあるのだから、別の場所に並べばいいはずである。だが私にとって、私が決めた場所に並ぶということは、それがいつもと同じ一日をすごすために必要なジンクスのようなものがあり、できれば乱されたくないという思いがある。そして、そうした些細な事柄に極端なまでにこだわってしまう自身の心理を顧みたときに見えてくるのは、自分が認識する主観的世界の狭さ、それも、妙に偏りがある世界の狭さというものである。

 朝の通勤電車を待つ位置など、そもそも会社勤めをしなくなるか、通勤手段を変えるかして、自身の環境を変えてしまえば、おのずと崩れてしまう程度のものでしかない。それは本人にも充分わかっていることではあるのだが、たとえ理屈はどうであろうと、今現在自分がそうした環境にいる事実は変わらない。だからこそ、理屈ではないところで動く人間の心はやっかいなものであるのだが、そうした心理を極端なまでに肥大化させることによって成立したのが、今回紹介する本書『黒冷水』だと言える。

 修作を潰すしかない。
 そうしないと、この圧倒的な黒さと冷たさを抱いた黒冷水を、体の外に追いやることはできないだろう。黒冷水の源である修作を潰してしまえば、すべての問題は解決する。

 そのタイトルにある「黒冷水」とは、本書に登場する高見澤正気が弟である修作に対していだかざるを得ない負の感情を表現するために、彼が生み出した造語であり、おそらく、赤くて熱い血液の対極にあるものという意味で、非人間的、非人道的な感情を強調しようという意図があるのだが、そのネーミングセンスひとつをとってみても、なんとも「イタい」感じが伝わってくる。もっとも、正気が高校二年、修作が中学二年という年齢であることを考えれば、それもうなずけるものではあるのだが、ではこの兄弟のあいだでいったい何が起こっているのかと言えば、じつのところ弟が勝手に兄の部屋を物色し、それに対して兄のほうが、陰湿なトラップを仕掛けて弟を牽制するという、なんともささやなか攻防だったりする。

 それはしょうもないといえば、あまりにしょうもない争いでしかなく、言ってしまえばそれまでのことであるのだが、それでもなお本書がコメディーとしての印象ではなく、むしろガサガサに乾いた心を刺激するような、ある種の緊張感と陰湿な印象をたもちつづけているのは、本書の世界観があまりにも正気と修作の主観に入り込んだうえで物語を構築しているところがあるからに他ならない。

 たとえば冒頭は修作の主観で、兄の部屋を物色する様子が書かれている。兄が家に帰ってくる時間をあらかじめ計算し、どこを物色するかを計画し、しかも物色した痕跡をいっさい残さないよう、細心の注意を払いながら、しかし徹底的に部屋をあさりつくす――それは、糊付けした封筒を開封した後、前と同じ糊を使って封をしなおすといった念の入れようであり、当人としては完璧な作業をしているものとして悦に入っているのだが、次の正気の主観に切り替わると、弟の手口の荒さは一目瞭然であり、とたんに修作の幼稚さや偏執的な部分が露呈されることになる。

 じっさい、修作は無線LANでつながったパソコンにエロ動画を転送し、こっそり再生するという知恵はあるのに、肝心の「最近使ったファイル」の履歴を消し忘れたりする抜けたところがあるいっぽう、正気のほうはキャビネットの開閉部分にビニールシールを貼って、自分以外の誰かが開けたかどうかの判断材料としたり、ダミーのパスワードめいたものを忍ばせて時間稼ぎをしたりといった、知恵の回るところを見せつけるのだが、エロ本を隠すために引き出しに大量の新聞をしまったり、わざわざ糊で封をした袋のなかにエロ動画を焼いたCDを保管したりする兄も、そんな障害をものともせずに部屋あさりをやめようとしない弟のほうも、本気であることがありありとわかるがゆえに、どこか尋常でないものを感じさせるのだ。そしてそんなふたりの「冷戦」状態は、沈静化するどころか、ますます過激な報復合戦となっていき、歯止めがかからなくなっていく。

 本書を読んでいくとわかるのだが、正気にしろ修作にしろ、その目に映っているのはお互いのこと――相手をいかに出し抜き、貶めて自身の優越感を満足させるか、ということだけであり、そのほかのことにはほとんど関心がないようにさえ思えるところがある。ふたりともそれなりに交友関係があるはずであるし、じっさいにそのとおりではあるのだが、そうした部分が物語のなかに出てくることはない。下手に人間らしい生活のシーンを排除し、兄弟どうしの争いの部分のみに特化していくことで、お互いのお互いに対する過敏なまでの意識を強調することになっているのだが、それほどまでに意識しているにもかかわらず、ふたりとも兄弟であるはずの相手のことが根本的にわからない、という点こそが、なにより本書の油断できないところだと言うことができる。

 オタク的アニメでも、エロはエロに徹していれば正気もなんとか理解できる。だが汚れのない少女たちの当たり障りのない、エロっ気まったくなしのアニメには、言いようのない気持ち悪さを感じた。

 修作がこっそり録画している深夜アニメについて、正気は上記のように判断する。エロでもない、ストーリー性でもない、ただ女の子の魅力だけで構成されているアニメの、何が良いのかが正気には理解できない。そしてその理解できないという感覚は、そのまま修作という人物そのものにもあてはまる。お互いに対立し、憎みあっているがゆえに、コミュニケーションという手段に訴えることもできず、また修作自身が自身のオタク的趣味を必死に隠そうとしていることもあって、正気にとっての修作は弟ではあるものの、わけのわからない異質な存在として、ほぼ固定されてしまっているのだ。そしてそれは、修作の正気に対する見方をとっても同じであろうと容易に想像がついてしまう。

 はたして、こんなふたりの感情に、何か変化が生じるのだろうか。生じるとすれば何がきっかけで、どのような変化となるのだろうか――小説があくまで人と人との関係を描くものであれば、そうした展開を期待することができるのだが、本書にそうした単純な人間ドラマを求めると、とんでもないしっぺ返しをくらうことになる。そのラスト近くに仕掛けられた意想外な展開もふくめ、はたして『黒冷水』とは何だったのか、ぜひとも考えてみてもらいたい。(2010.02.04)

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