【角川書店】
『漆黒の王子』

初野晴著 

背景色設定:

 食物連鎖において、草食動物は肉食動物の餌という位置づけにあるが、そうなることによってその命は自然界のサイクルの一端を担っていくことになる。より大きな視点でとらえたときに、草食動物が肉食動物に食べられてしまうということには、ちゃんとした意味があるし、自然界のサイクルに組み込まれているというのは、自身の命の使われ方を心得ているということでもある。そして「弱肉強食」という言葉は、たんに弱者と強者の一時的な立場のことを指すのではなく、どんなに強い立場にある動物であっても、いずれその力は衰え、弱者の立場に置かれてしまうという必然を物語るものだ。

 捕食される側は別の側面では捕食する側であり、捕食する側もいずれその肉体は誰かの餌と化す――自然界において、生命というのは特定の誰かの所有するものではなく、あくまで流れていくもの、循環していくもののひとつの形態でしかないのだが、そういう概念からはずれた部分に価値観を置くようになったのが人間だというものの見方がある。自我をもち、自分がほかの誰でもない、まぎれもない自分自身であるという意識をもつにいたった人間は、所有の概念とともに発展していった近代社会のなかで、流れていくはずの生命さえも自身の所有物であるという認識のもとに生きている。そしてそれゆえに、自身の生きる意義について考えずにはいられない。とくに、社会的に弱い立場にいる人たちにとって、「弱者」であることそのものに意味があるという考えが耐え難いものだろうと想像するのは、さほど難しくはない。

「上側の世界ではね」と、《王子》がいった。「弱者の存在は、周囲のやさしさによって穏やかに殺されているんだ。対立や摩擦を徹底的に避ける、一方的なやさしさにね。……ときどきそれが、ひどくつらいときがある」

 今回紹介する本書『漆黒の王子』には、「上側の世界」というパートと、「下側の世界」というパートのふたつの物語の流れがあり、そのふたつが交互に入れ替わっていくことで話が展開していく。「上側の世界」では、地方暴力団のひとつである藍原組の組員が、短期間のうちに次々と変死していくという事態にみまわれている。何日も不眠がつづいたあげく、最後には眠るようにして死んでしまうというその奇妙な死に様は、たんに不幸な突然死が重なったものだと言えなくもないのだが、組長代理として本家から派遣され、実質的に藍原組を仕切っている紺野は、これが何者かによる殺人であることを確信していた。彼とその相棒である高遠のもとに届けられる、正体不明のメール――それは、組員の死を狙い済ますように送られてくる一種の犯行声明であり、ふたりはメールの送り主が何者なのか、躍起になって探していた。

 いっぽうの「下側の世界」では、ある女性がふと気がつくと、ひどい怪我を負って地下の暗渠に倒れているところから物語がはじまる。はるか昔につくられた下水道だというその暗渠には、驚くべきことに人間が人目を避けるようにして生活していた。彼らは本来の名前ではなく、「時計師」や「画家」、「楽器職人」といった職業名でお互いを呼び合い、その中心には「王子」と呼ばれる少年がいた。自分が何者なのか、そして自分がなぜこんな地下の世界にいるのか思い出すことのできない彼女は、外に出る道を教えてもらう代わりに、しばらくのあいだそこに留まることを決意する。

 プロローグと称する、ある少年の身におきた大きな不幸もふくめて、数多くの疑問や謎を提示することで読者を物語世界に引きずりこんでいく本書は、ある意味ではミステリーとしての要素を色濃く押し出していると言うこともできる。「上側の世界」でヤクザたちを襲う突然死が何者かによる巧妙な殺人であるとすれば、いったいどのような手段を使っているのか。また犯人は誰で、何の目的があってヤクザ相手に殺人をつづけているのか。「下側の世界」で一人称の語り手である女性の正体はだれで、そもそも「王子」たちはなぜ暗渠のなかで生きることに甘んじているのか――もちろん、平行して進んでいくふたつの物語の関連性も本書が提供する謎のひとつであるが、じつは本書の最初の段階でひとつの結びつきが明らかにされている。それは、「上側の世界」で紺野たちを翻弄する犯人と、「下側の世界」で記憶を失っている女性が、ともに自分を「ガネーシャ」と名乗っているという点であるが、その結びつきが謎を解明するどころか、より深い謎を呼び起こすにすぎないという構成は、なかなかに心憎いものがある。

 暗渠のなかで生活している「王子」をはじめとする者たちは、基本的には浮浪者であり、社会的には弱者の立場にある。それぞれにつらい過去や重い事情をかかえ、「上側の世界」に象徴される社会からつまはじきにされた者たち――現実的に考えて、彼らがしているような生活が長く成り立つとは考えにくいし、それゆえに「下側の世界」は、その存在自体がどこか夢幻であるかのような印象さえ受けるのだが、たとえば自然界において、死期を悟った年老いた象が集まるという「象の墓場」のようなイメージを、「下側の世界」に投影しているようなところが本書にはある。ただひっそりと、みずからの死を待つための世界――そこにいる人たちが社会的弱者であるというのは、ある意味で必然であるが、興味深いのは、「上側の世界」でしのぎを削っている紺野もまた、自分たちが弱者であることを認識したうえで行動しているという点だ。

 紺野は財政難に陥った暴力団の再建のため、昔のような仁義を重んじる風習を一蹴、きわめて合理的かつ冷徹な采配をふるって組織拡大を成しえた人物である。いくつもの暴力団を一本化し、同時に莫大な利権を手にする立場にある彼は、その過程でどんな非道なことにも手を染めてきたし、それゆえに敵も多いのだが、どちらかといえば「弱者」よりは「強者」であるはずの紺野が、それでもなお自身を「弱者」であると認識しているのだとすれば、本書は弱い者たちが、その「弱者」という立場をどのようにとらえていくか、という物語だと言うことができる。じっさい、紺野たちは「ガネーシャ」の攻撃を食い止めることができず、ほぼ一方的に狩られていくしかないという意味では、たしかに「弱者」の側に立たされているのだ。

 生命が他の生命の糧となって循環していく自然のサイクルからはずれてしまった人間たちは、それゆえに死を怖れなければならなくなった。より正確に言うなら、死というものに意味を見出せなくなった、ということであるが、それゆえに何より生きることに過剰な価値観を置かざるをえなくなっている。生きることの意義に過剰となった者たちとは、本書に登場する紺野や高遠、そして「ガネーシャ」であると同時に、他ならぬ私たち自身のことでもある。たんなるミステリーとしてとらえるだけでは、あまりにも深遠な何かを、本書はたしかに含んでいる。(2010.05.11)

ホームへ