【新潮社】
『博物館の裏庭で』

ケイト・アトキンソン著/小野寺健訳 



 小説というのはじつにさまざまなテーマを内包して書かれていくものであるが、なかでも「家族」をテーマとした作品に触れるとき、あたりまえのようにあるはずの「家族」という関係の不思議さについて、あらためて思いをめぐらせずにはいられない。

 私たちの生きるこの社会は、人と人との関係によって成り立っていると言っても過言ではないが、私たちが生を受けたときにまず接することになるはずなのが、父親や母親といった肉親であることを考えると、自我形成という意味においてもその関係の重要性は否応なく高まってくる。そう、この「否応なく」という点こそが、家族という関係における不思議さであり、また別の意味では理不尽さを物語るものでもある。結婚相手や友人は、基本的に相手を選ぶことができる。逆に言えば、そうした人間関係のありようが自分という個性の一側面ともなってくるわけだが、家族、とくに血縁関係だけは、自分の意思とは無関係に、否応なく結びついてしまうものだ。だからこそ、そこにはさまざまな人間ドラマが生まれてくることにもなる。

 自分という存在のもととなった父親や母親、同じ血を分けた兄弟姉妹、さらには父母の兄弟姉妹やその両親――こうした、どこまでも続いていくようにも思える血のつながりは、けっして断ち切ることのできない強固なものであるがゆえに、私たちはまぎれもない自分というものを見出すさいに、自身の血筋と一度は対峙しなければならなくなる。その関係を肯定するにしろ否定するにしろ、自身の一族がたどった道は、そのまま自分の未来にもつながる可能性を秘めているのだ。

 あたしの名前はルビーなのだ。あたしは宝石、血の一滴なのだ。ルビー・レノックスなのだ。

 本書『博物館の裏庭で』の一人称の語り手として登場するのが、このルビー・レノックスという女性であるが、「あたしは存在している!」という冒頭の第一声を発したときの彼女は、じつはまだこの世に生まれてきてさえいない。そのときの彼女は、まだ母親であるバンティの胎内に受胎したばかりであり、外の様子や自身の家族となる人たちのことなど知るよしもないのだが、あたかもすべてを承知しているかのように物語が進んでいくという意味で、大きなインパクトを読者に与える作品である。だがこうした書き出しが、たんに奇をてらったものだと一蹴してしまうのは早計だと言わなければならない。そしてそのことを説明するためには、本書独特の語りのスタイルについて述べる必要がある。

 レノックス家はイングランド北部のヨーク市の一角にペットショップを構えている、とくにこれといった特徴があるわけでもない、ごく一般的な家庭であり、ルビーはその末娘として生を受けることになる。自分の家のあるロウザー通りひとつを説明するときにも、ローマ軍がこの道を通ったはずであるとか、かつてはステンドグラス職人もここに住んだとか語る彼女の視点は、多分に誇大妄想的なところがあって、それこそロビンソン・クルーソーもこの通りの家の住人だったなどと語ってしまうほどであり、ある意味で自由奔放なその語り口が本書の大きな特長のひとつとなっている。ルビーの視点がけっして現在という一点に落ち着くことがないことは、まだ自分が生まれてさえいない時期の事柄を、あたかもその目で見てきたかのように語るというその形式からも見て取れるのだが、あるときははるか未来の視点から語り、あるときは家族にまつわる付属物――それこそ家族の古い写真から、幸運のお守りである兎の脚、洋服のボタンにいたるちょっとした小物から、「補遺」という形で過去の時間を遡っていくルビーが語るのは、一貫して自身の家族のことであり、それは彼女の曾祖母であるアリスの時代にまで至る。

 自身を含めれば、じつに四世代にわたる一族の歴史を物語るという形式の本書は、それだけでも壮大なストーリーを期待させるものであるし、ルビーの旺盛な想像力が、いっけん平凡に見える一族の歴史をある種の滑稽さで彩るのに一役買っていることは間違いない。じっさい、本書にはじつに多くの登場人物が出てきて、その大半が自分となんらかの血縁関係にある人たちであり、その範囲は彼らの友人知人や隣人だった人たちにもおよんでいくのだが、夏休みのドライブでしょっちゅう道に迷ったあげく車酔いする者が続出するというエピソードや、従弟の結婚式がサッカーワールドカップとかぶったせいでさんざんだったというくだりなどは、なかなか思いどおりにならない人生の妙なおかしさを醸し出している。

 同じように一族の女の歴史をつづった作品として、最近では桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』を思い出すが、本書に登場するレノックス家の人生は、「伝説」と称されるほどの特異さをともなっているわけではない。だが、同時に彼らの人生が、平凡ではあるが幸福で満ち足りたものとして片づけられるような、単純なものでないこともあきらかだ。ルビー自身の今の家族をとってみてもけっして円満というわけではなく、とくに母親バンティとの確執はけっこう根深いものがあり、その母親も、かつては叶わなかった恋やうまくいっていない結婚に尽きない不満をかかえている。父親のジョージはべつの女性と不倫していたり、いっぽうでバンティもべつの男とひそかにつながっていたりもするところ、家族の絆はもはや寸断されているようなものだと言っていい。ペットショップの火事、姉ジリアンの事故死――そんなルビーの家族と呼応するかのように書かれていく先祖たちの人生も、けっしてままならない、理不尽な事柄ばかりだったりする。二度の世界大戦による戦死や、身内の突然の失踪といった重いものから、遠足の集合時間に遅れて置いてきぼりをくらったりといった軽いものまで、じつに千差万別な一族の歴史絵巻は、まさに眩暈がしそうなほどの多彩さであり、けっして読者をあきさせないものがある。

 本書の登場人物たちは、ひとりひとりをとらえたときには、けっして特異な個性をもっているわけではない。だが、ルビーという特異な想像力と時間に縛られない視点をもつ語り手によって、彼らが「レノックス家」というくくりにされたとき、そこにはまぎれもない生きた人間の壮大な歴史が浮かび上がってくることになる。だが、同時にルビー自身について目を向けたときに、その一族の生き様とは裏腹に、驚くほど自身のこと、その将来について語っていないことに気づく。いや、けっして自分語りがないわけではないが、それはまぎれもない現実のことというよりは、むしろ彼女の妄想が多分に混じっていて、その核となるものがぼんやりとしてとらえきれないと言ったほうがいい。そもそも、自分が生まれる前の光景を書くというスタイルからはじまっている本書において、ヒロインであり語り手でもあるはずのルビー自身の姿がはっきりしないというのは、ある種の必然でもあるのだが、そうした事情と、彼女が執拗なまでに自身の家族のこと、そしてそこからつながっていく血族のことを語っていくことを考えたときに、この壮大な一族の歴史絵巻が、ほかならぬルビー自身のこの世での存在意義をたしかめるためにこそ書かれたものではないか、というひとつの推論が浮かび上がってくる。そう、それこそ本書の冒頭で彼女が「あたしは存在している!」と叫んだように。

 そこには、だれもが何かを棄てている――名前も分からない諸部族が、ケルト人が、ローマ人が、ヴァイキングが、サクソン人が、ノルマン人が、そしてそのあとにやってきたあらゆる人間が。――(中略)――過去とは、光のつまった戸棚なのだ。あとは、その扉を開ける鍵さえ見つければよいのだ。

 本書はある家族とその過去に連なる一族の物語であると同時に、現在を生きる者たちの物語であり、その家族とのつながりの妙――けっして断ち切ることのできない親族関係の悲喜劇を語る物語でもある。私たちは、誰もがそのどうにもならない理不尽さをかかえて生きていくしかないのだが、それはあるいは、私たちが考えているほど悲劇的なものではないのかもしれない。そんなふうに思わせてくれるものが、本書のなかにはたしかにある。(2010.05.16)

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