【集英社】
『マダム・キュリーと朝食を』

小林エリカ著 



 少し前に、引き出しの整理をしていると蝋燭が出てきたので、ためしに夜に灯してみたことがあるのだが、そのときにあらためて思い知ったのは、電気の生み出す光に自分がいかに依存してきたか、ということである。蝋燭の火は、雰囲気だけをとらえるのであればなかなかに良いものではあるのだが、蛍光灯などの光に慣れている身としては、どうしてもその光源の乏しさを感じずにはいられない。とにかく暗い。夜というものがこれほど暗いものなのかと思い知らされるほど、その光は頼りなく、日常生活すらままならない。何より、あまりに暗すぎて本を読むのに大きな支障が出るのがつらい。

 電灯というものが発明される以前は、人々はガス灯やランプ、あるいは蝋燭などの明かりで夜を過ごしてきたわけだが、当時その発明が「夜を昼に変える」と呼ばれていたのは、誇張でもなんでもないことをつくづく実感する。それはまさに「新世界」の科学技術であり、人類のさらなる発展と進歩の象徴でもあった。明るい未来を照らすための「光」としての科学――だが、他ならぬ現代を生きる私たちは、その「光」がかならずしも人類の幸福ばかりを照らし出してくれるわけではないことをよく知っている。本書『マダム・キュリーと朝食を』を評するさいに、ひとつ押さえておかなければならないのは、物語のなかでくり返し登場する「光」のイメージがもたらす両極性である。

 マダムが手を触れたものには、棚や引き出し、洋服、実験ノート、料理本にもマダムの指紋が、放射性物質がいまもくっきりと残っている。それがいまだ光を放っている。

 本書のタイトルからも類推されることではあるが、上述の引用にある「マダム」とはマダム・キュリー、つまり放射線研究で有名なキュリー夫人のこと。そして彼女が触れたものにいまもなお付着し、放ちつづける「光」とは、放射性元素であるラジウムがもたらす燐光のことを指している。一六〇〇年単位で半減期を迎えるものの、ほぼ永遠に消えることのないこの「光」は、物語のなかでは時空を超える物質として、本来であれば関連性のないふたりの登場人物を結びつける役割をはたしている。

 それは、一匹の猫であり、一人の少女だ。一匹の猫は、放射性物質に汚染された街から救出された猫であり、一人の少女は、その汚染を引き起こした地震と津波が発生した大災害の年に生を受けた。そしてこのふたりは現在、同じ街で生活しているが、ふたりはそのことを知らない。

 近未来の日本を舞台とした本書ではあるが、その内容はSFというよりは、むしろ寓話に近いものがあり、良くも悪くもリアル指向というわけではない。あきらかに東日本大震災を思わせる、過去にあった災害についても、話のリアルさのために使われているわけではなく、むしろ物語を構成するうえで重要な要素となっている「光」の存在を際立たせるためのものでしかない。その端的な例が、「光」に対する少女と猫の認識だ。リアルな意味での「光」とは、放射能のことを指している。それは、とくに日本人にとっては忌むべきものであり、また恐怖の対象としてこびりついているものでもある。だが少女と猫にとっては、それは自ら望んで向かっていくもの、手に入れるべきものとして認識されている。

 たとえば、語り手の猫にとっては、自分の生まれ故郷である〈マタタビの街〉を想起させるものであり、そこから無理やり引き離されてしまった彼女にとって、「光」は自分の母親や、さらにその母親といった、自身のルーツにつながる唯一のものとなっている。じっさい、本書のなかで彼女は、その「光」を放つ食べ物を口にすることで、「光」が留めているあらゆる事象――まさに放射性元素ラジウムが人の手で発見され、言葉によって人間社会に定着づけられた過去にまで自身の意識を遡っていくという体験を、何度かくり返すことになる。

 もうひとりの語り手である、雛という名の少女にとっても、「光」は無関係のものではない。というのも、彼女の血筋に連なる女性たちは、代々「光」の声を聞くことができるという性質をもっており、彼女たちの人生を大きく左右しているのだが、今の雛はその声を聞くことができずにいる。母親からその「声」の話を聞かされて育った彼女は、自分もその声を聴けたらいいのにと思いながら日々を過ごしている。

 猫が語る〈マタタビの街〉は、放射性物質にまみれたせいで人間たちが放棄した街のことであり、雛の母親が聞いた声とは、放射線の声である。物語のなかで明確にはされていないが、語り手たちの一族は、「光」とのかかわりあいにおいて、ほぼ例外なく不幸に見舞われている。だが、それにもかかわらず、それが放つ「光」に惹かれずにはいられない語り手たちを、どのようにとらえるべきなのかを考えたときに、本書が想起してくるのは、個人としての人間の悲喜こもごもといった要素を超えた、もっと本質的で普遍的な事柄である。そしてそのとき私たちは、語り手たちと同じように「光」に惹かれ、その研究のために尽力した人たちが、過去にも存在したことに思い至る。マダム・キュリーは、まさにその象徴的人物だと言える。

 本書のキュリー夫人は、じつは物語の登場人物として直接登場することはない。出てくるのは、およそ放射線研究とは何の関係もない、メモ用紙に書かれた料理のレシピという形においてのみである。だが、語り手の猫が知り合うタマゴという名の猫は、そのメモをまとめた本のレシピ、つまりキュリー夫人の料理メモから、「光」を内包する料理をつくる術を知っているし、雛の母親のイメージは、多分にキュリー夫人のイメージとダブるところがある。本書を読んでいくと、猫が「光」のなかで見る過去のエピソードなどで、キュリー夫人よりは、むしろ「発明王」エジソンのほうが露出度が高いと思えてくるのだが、本書のタイトルとして他ならぬキュリーの名前が挙がっている点に、この物語の意義を見いだすことができる。

 以前紹介したリチャード・モランの『処刑電流』にも書かれていることだが、エジソンの発明した白熱灯は、人々の生活に革命をもたらしたが、そのいっぽうできわめて泥臭い理由で、同じ発明品から人間を処刑する電気椅子をも生み出している。科学技術の光と闇――それは放射線研究においても例外でないことは、原子爆弾と原子力発電の両面を見ればわかることである。しかも東日本大震災が招いた原発事故は、科学技術を自在に操れると思い込んだ人間の傲慢さを打ちのめすのに十分なものだった。

 私たちは、放射性物質が放つ燐光は見ることができるが、そこから放出される放射線を見ることはできない。そして目に見えないものというのは、ときとして忘れ去られてしまいがちである。だが、見えないからといって、それが存在しないということにはならない。科学の発展は、目に見えない世界にまで私たちの目を開かせることになったが、白熱灯によって暗がりが明るく照らし出されても、それであらゆるものが見通せるようになったかと言えば、むしろそのことによってかえって見えづらくなったものもある。本書の語り手たちが追い求める「光」のなかに、私たちははたしてどのような光景を見出すことになるのだろうか。(2015.04.13)

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