【河出書房新社】
『一人の哀しみは世界の終わりに匹敵する』

鹿島田真希著 



 北森鴻の『狐罠』という作品に、とある骨董品の贋作を作成するシーンがある。本物と同じ時代の木材を手に入れ、作成当時の道具で加工を施し、本物と同じ原料で着色する――本物が作成された時代を考慮し、その技術を行使する状況まで想像したうえで作られたその贋作は、加工技術がたしかなものであれば、本物と何ら遜色のないものになってしまう。そのとき、はたして本物と贋作とのあいだに、どれほどの差が生じることになるのだろうか。

 すべての人に見破ることのできない偽札は本物と同じ、というのは、真保裕一の『奪取』のなかの言葉であるが、こと芸術の分野において、何が「芸術」とされるのか、という命題は、常にそれを鑑賞する側の人間に突きつけられるものでもある。上述の例をふまえるなら、もし美術館に展示されている絵画が贋作であったとしても、その筋の専門家ではない私たちに、真偽を見極める手段はない。逆に言えば、もし本物の「モナ・リザ」が公衆トイレの壁に貼られていたら、私たちはそれが本物であると認識できるだろうか、ということになる。

 私たちが鑑賞する芸術作品を「芸術」ととらえるのは、それを提示している美術館のたしかな権威があってこそのものであって、私たちひとりひとりが、作品そのものの価値を見極めているわけではない。ゆえに、たとえばマルセル・デュシャンの「泉」のような作品に出くわすと、そうした権威性を明示させられてハッとするのだが、今回紹介する本書『一人の哀しみは世界の終わりに匹敵する』には、私たちのなかにある「文学」という、なんとも曖昧模糊としたものについて、あらためて喚起させられるようなテーマが内包されている。

「この地上にあるどんなお菓子をたべてもかまいません。しかし、チョコレートだけは、女の子からもらうチョコレートだけは食べてはいけませんよ」

(『天・地・チョコレート』より)

 本書のタイトルとなっている『一人の哀しみは世界の終わりに匹敵する』は、本作を含む五つの短編を包括する作品名としてここでは扱われている。そしてそのいずれの短編にも共通する特長として、聖書のエピソードを思わせるような要素が含まれている、というのがある。たとえば上述の引用元である『天・地・チョコレート』は、アダムとイブの物語を現代風に作りかえたもので、舞台はエデンの園ではなく小学校、知恵の実の代わりにバレンタインデーのチョコレートが使われていたり、知恵の実を食べさせるヘビを連想させる「ニシキ」なる女の子が出てきたりと、まるで聖書のパロディーのような内容であることが見て取れる。

 ただし、この短編において「知恵の実」たるチョコレートを食べてしまうのは、女のイブではなく、アレクセイという名の男の子である。それも、チョコレートの誘惑に負けて口にしたのではなく、クラスのみんなが寄ってたかって、拒否するアレクセイに無理やりチョコを食べさせた結果、半ズボンが似合う少年だった彼は半ズボンをはくことに羞恥心を覚え、ふつうのズボンをはくようになる、というオチがついている。つまり聖書のエピソードと本書とでは、男女の役割が微妙に逆転しているという違いがあるのだ。

 日本におけるバレンタインデーとは、女の子が好きな男の子にチョコレートを渡して告白する日となっている。小学校という楽園で、先生という神に禁止されていた「女の子からもらうチョコレート」を食べることでついてしまった「知恵」とは、たんにそのチョコレートが甘いお菓子であるということだけでなく、渡してくれた相手が他ならぬ「女の子」である、ということへの気づきだと言える。子どもが自分の性差について、はじめて意識する瞬間を、聖書のエピソードとして再構成した『天・地・チョコレート』――アダムとイブの物語の現代版として選ばれたイベントが、女の子が主体となって動くバレンタインデーであることは、けっして偶然ではない。なぜなら本書は一貫して女性の視点からとらえられた聖書の物語であり、だからこそイブ役として選ばれるのは、半ズボンがよく似合う男の子のアレクセイなのである。

 本書の短編に登場する女の子たちは、知恵の実を食べる前のイブのように純粋な存在ではなく、最初から自身の性差について意識的であり、しかもそのことをとくに不自然だとも思っていない。たとえば『聖メリーゴーラウンド』では、初体験のことを「メリーゴーラウンドに乗る」という表現を使ってはいるが、それが何を意味するのかを心得ているし、そのことに内心では興味津々だったりもする。ひとりの女の子の目をとおして、小学校から中学校、高校と時代がくだっていき、最後の表題作において、ふたたび登場するアレクセイの婚約者となった語り手の「私」が、処女懐胎のマリアのエピソードへと収束していくという流れは、まるで女性の始祖であるイブがアダムの肋骨から生まれたという、ある意味で男性優位の現実への異議申し立てのようでもある。

 だが、本書に対するそうした分析的な視点は、じつのところほとんど意味をなさない。重要なのは、本書のなかに含まれている聖書の要素について、私たち読者がそれを他ならぬ「聖書」の要素としてとらえてしまうことそのものにある。

 聖書とは、言ってしまえばキリスト教の聖典だ。それゆえに聖書は、宗教というイメージと分かちがたく結びついてしまっている。そしてその影響は、古今東西の文学作品や小説に広く及んでもいる。だが同時に、そうした宗教的イメージを払拭したあとに残っているのは、無数の物語としての要素でもある。これは私見でしかないが、本書の意図は、そうした聖書の物語的要素を、いったん宗教的なイメージから切り離したうえで、自身の物語として再構築しようという試みにある。そしてそれは、男性的物語から女性的物語への変換作業でもある。

 文庫版の本書に収録されている『レギオンの花嫁』にも似たような傾向があるが、本書には俗世的なイメージ、性欲、暴力、支配欲を喚起させるイメージがあり、その欲望の対象としてしばしば女性が選ばれる。そこにあるのは、男性に選ばれ、所有物となる女性像であるが、そのいっぽうで、そうしたか弱さの裏に確固としたしたたかさが垣間見えるシーンも多いことに気づかされる。そしてそのしたたかさは、ときにより形而上的な、有無を言わさない神聖さとともに位置づけられ、本書の男たちはしばしばそれに翻弄されていく。それは物語としては理不尽なものであるが、その理不尽さは、もともと聖書にも含まれていたものだ。違いがあるとすれば、登場する絶対的存在である「神」にどれほどの権威があり、その権威を読み手がどれだけ自覚しているかだけである。そのことに気づいたとき、本書はたんなる聖書のパロディーとして片づけられないものとして、私たち読者に迫ってくることになる。

 美術館の提示物として置かれた便器が、はたして芸術作品なのかどいうかという命題は、あきからに聖書の物語を意識しながら、それを学校生活のなかにあてはめた本書にも共通するものである。はたして私たちは、本書とどのように向き合うべきなのだろうか。(2015.01.30)

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