【徳間書店】
『海辺の王国』

ロバート・ウェストール著/坂崎麻子訳 



 私が子どもだった時代はすでに20年近くも前のことになってしまうが、両親のたしかな愛情のなか、私は何の不自由もない、このうえなく幸せな少年時代を過ごすことができたと思う。私には帰る家があり、一家団欒の食卓があり、そして安心して眠ることのできるベッドがあった。その頃の私は、未来のことなど考える必要はなかった。おそらく、明日のことさえ考えられなかったに違いない。
 明日も、その次の日も、いつもと同じようにやってくると信じて疑わなかった、という意味で、子どもにとっての時間とは永遠であり、私の小さな心もかつて永遠の中で生きていたのであり、またそれがしかるべき姿なのだ。子どもたちが持つ、子どもたちだけに与えられた、かりそめではあるが、たしかに永遠だった時間――雨森零という作家の『首飾り』は、その美しい永遠の姿と、その永遠が否応なく壊れていくさまを見事に描いた傑作であるが、その「永遠」の崩壊は、何も少年少女の肉体的成長だけがもたらすものではない。

 本書『海辺の王国』に登場するハリー・バグリーという少年は、戦争という外的要素によって、無理やりに「永遠」から放り出されてしまった子どもである。舞台となるのは1942年のイギリス、第二次世界大戦まっただなかのこの時代、ナチスドイツの勢いは強大であり、イギリス本土もまたドイツ空軍の爆撃によって脅かされていた頃であるが、ハリーはその空襲によって両親と妹、そして帰るべき家のすべてを失ってしまう。

 このように書くと、いかにも戦争の悲惨さ、その悲しみを訴える戦争小説めいたものを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれないが、本書はあくまで少年の成長を描くために書かれた物語であり、爆撃機が吹き飛ばしたのは、彼を「バグリー家の子ども」としてつなぎとめていたものだと考えたほうがいいだろう。実際、家族を失った悲しみをとりあえず飲み込んで、ハリーは本来なら身を寄せるべき避難所に背を向け、海辺にそって旅に出る決意をする。そのことで、ハリーは自分の時間を自ら動かしたのだ。そしてそれは、明日の食料のことを考えなければならない、ということであり、また明日の寝床を考えなければならない、ということでもある。

 私は本書を、ハリーの成長の物語である、ととりあえず述べた。それはある一面においては間違いではない。ハリーと同じく空襲で飼い主を失ったドイツ・シェパードのドンとともにつづけられる旅のなかで、ハリーはさまざまな人と出会い、そこから何かを学びとっていく。ハリーに露骨な敵意を向けてくる者、逆にハリーに親切に接してくれる者――そのほとんどは、ハリーがただの「ハリー」となることで見えてきたもの、家族という名の庇護が取り払われたために、まのあたりにしなければならないこの世の現実、大人たちによってつくられた、大人の世界だ。そうした世界に対して、ただひとりの友だちとなったドンとともに戦い、あるいは打ちのめされたり、あるいは逃げ出したり、また打ち負かしてやったりしながら旅をつづけるハリーは、たしかにそれまでの彼であれば経験することのなかった出来事の連続を体験しなければならない身であり、そういう意味において彼の旅はひとつの大きな冒険だった。そしてそこから得られたものを吸収して、ハリーは成長することにもなるだろう。

 だが、ひとつだけ疑問に思わなければならないことがあるとすれば、戦争という圧倒的に不自然な災難によって、無理やり「子ども」という永遠から飛び出さなければならなかった少年の成長が、はたして自然な成長だと言えるのだろうか、ということである。少なくとも、私という個人のこれまでの人生を考えたとき、12歳という年齢は、まだまだ誰かの庇護を必要とする時期であり、何が正しく、何が間違ったことなのかを、しっかりとした考えを持つ大人に仰がなければならない時期でもある。この物語の本質的なテーマ――いっけん何の目的もないように思えるハリーの旅の目的は、本来あるべき、自然な状態を取り戻すためのものであるのだ。

 ハリーは空襲によって家族を失った。であれば、彼がもっとも欲する「自然な状態」とは、自分の家族とともにいる状態しかない。ハリーが本来持っているべき関係――思えば、最初に出会ったドンとの主従関係をはじめとして、海辺に小屋を建て、浜に打ち上げられるものを拾って生活しているジョゼフ・キールティにしろ、子ども好きな兵隊アーチーにしろ、あるいは偶然立ち寄った屋敷に住んでいる裕福な老婦人にしろ、ハリーは望む望まないにかかわらず、出会った人たちに欠けてしまった何かの代わりとして、自分自身をあてはめようと試みていたように思う。それは、あるいは不自然な、安定しない状態から、もとあるべき自然な姿へ戻ろうとする、人が人であるために必要な秩序の力だといってもいい。

 だが、すでにハリーの時間は動きはじめてしまった。動きはじめた以上、すべてはけっして元通りにはなりえない。それは、たとえ家族と家がすべて彼の手に戻ってきたとしても、止めることのできない、彼だけの時間なのだ。ハリーはこの旅のはてに、その事実を知るのである。だからこそ、本書は成長物語でありながら、どこか、哀しい。

 ふいに、人生ははてなく続いているものに思えてきた。――(中略)――二つの生活をへだてていたもの、家の焼けあとでくすぶるれんが、ママ、パパ、ダルシーが、きゅうに信じがたいほど小さく見えた。人生は続くのだ。ハリーにはそれがわかった。――
 ただ、そこには、ママや、パパや、ダルシーはもういない。

 本書にはしばしば、美しい自然の風景が描写されている。まぶしいくらいに輝く太陽、打ち寄せてはひいていく波、その波間すれすれを飛ぶ鳥たち、雨や風の音、澄みきった青い空――そうした自然の姿は、常にハリー自身、そしてハリーがとくに親しみを覚えた人たちと分かちがたく結びついている。それは同時に、世界に不自然な状態をたくさん撒き散らしていく「戦争」という名の不条理とは対極に位置するものでもある。

 ハリーが長い旅のすえに見つけた「海辺の王国」――それは、ときに厳しく、ときにやさしい自然そのものであり、ハリーが他の誰でもない、まぎれもない自分でいることのできる、彼が見つけだし、彼が築いた時間の流れそのものでもあるのだ。(2001.10.04)

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