【河出書房新社】
『ブエノスアイレス午前零時』

藤沢周著 
第119回芥川賞受賞作 



 重くのしかかるように降り積もる雪、年中シーズンオフであるかのようなひなびたホテル、そして硫黄の臭いを体中に染みこませながら温泉卵をつくる、ホテル従業員としての自分――カザマにとって、故郷である雪国での生活は、何もかもが憂鬱にさせる原因となってしまうらしい。

 『ブエノスアイレス午前零時』というタイトルとはうらはらに、本書の舞台となるのは日本、しかも地方の雪国だ。カザマはいわゆる出戻り組で、今は百十坪のダンスホールを持つみのやホテルの従業員として働いている。カザマの将来は非常に見とおしが悪い。両親は豆腐屋を営んでいるが、その跡を継ぐつもりはないようだ。といって、いまさら東京に戻ってやりたいことがあるわけでもないらしい。自分は何がやりたいのか、何をやるべきなのかが見えてこない――そんな、ただ漠然と時を過ごすことに対する焦燥感がつのっているのは、たとえば「そんなことを考えただけで、体の中に何か悪臭のする澱が溜まっていくような気がした」「蛍光灯の光を反射した髪がゴキブリの背中のようだとカザマは思う」「恐ろしく疲れた時に出る小便の色だと思う」といった、カザマのとことんネガティブに物事をとらえてしまう表現を見てもわかる。
 そんな鬱屈したカザマが、ダンスパックの客としてやってきた、耄碌した盲目の老女とタンゴを踊る――言ってしまえばただそれだけの物語なのである。小説にするにはあまりに地味なストーリー、そしてこれといった特徴の見られない、きわめて平易な文体――もし、著者があえてこのようなストーリーや文体を選択してこの小説を書いたのだとするなら、その理由は何なのだろう、と考えずにはいられない。

 三人称ではあるが、あくまでカズマの主体で書かれた本書は、上述したとおり、あらゆる物事をネガティブな視点をとおして表現している。そんななかで唯一の例外と言っていいのが、ボケの始まった盲目の老女ミツコの存在である。最初、観光バスの窓をとおしてミツコを見かけたカザマは、彼女が若い女であると錯覚してしまう。その後、みのやホテルのなかを一人でふらふらと歩いているミツコを見つけたとき、カザマは彼女が盲目の老女であることを認識し、さらにトイレでミツコが若い頃は娼婦だった、という話を耳にする。
 だが、本書に出てくる登場人物のなかではおそらくもっとも醜い女に思えるミツコに対するカザマの印象は、物語が進んでも変わることがない。むしろ、ミツコ以外のダンス会の人々の様子のほうが、ずっとネガティブに書かれているのである。ミツコとそれ以外の人との違いと言えば、ポケが始まっているか、そうでないか、ということになるのだが、ミツコはただ耄碌しているわけではなく、自分がずっと若かった頃の世界を今もなお生きつづけているのである。

 そして、カザマはミツコとタンゴを踊る。

 自分の右半身に密着したミツコの痩せた体に、優しい気持ちがせり上がってきそうな、不快だが体の何処かで微熱を孕みそうな感じを覚えた。まるで見たこともない空気の隙間に入り込んだようだった。そして、空気の壁がクチャッと音を立てて、自分を挟み込んで、前を見ると、そこには自分の知らない安ホテルの寝室のドアが開かれているようだ。

 冬は大雪によって外の世界から隔絶されてしまうような町で、おそらくこのまま同じような日々を過ごしていくことを予感しているカザマが垣間見た、ミツコの妄想――しかし、それはけっして醜いものではない。この瞬間の妄想をきわだたせるために、本書全体の構成をネガティブなものに統一したのだとするなら、その試みはたしかに成功しているし、著者の抜け目なさに賞賛をおくるほかはない。

 面白いストーリーと魅力的な登場人物が活躍する物語を読ませるのは簡単だ。だが、老人ばかりが出てくる平坦なストーリーを読ませるには、そうとうの文章力が必要となってくる。本書『ブエノスアイレス午前零時』は、職人芸を思わせるような小説であると言える。(1999.04.04)

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