【みすず書房】
『本という不思議』

長田弘著 



 誰の邪魔も入ることのない、たったひとりきりの部屋。本を開き、心静かに読書に集中することができる時間――こうした、ゆっくりとしたひと時を持つことができるということが、いかに貴重なことであるか、しみじみ実感したのはつい最近のことだ。

 本という形態、とくに文庫本におけるコンパクトさを考えると、本というのはその気になれば、どこへでも持ち運びができて、いつでも読むことができるものだとつい思ってしまうのだが、ただ文章を目で追い、情報を得ようということであればともかく、読書という行為に深く足を踏み入れようと思ったとき、本を開いたのはいいがなかなか集中して読むことができない、というのは読書家であれば誰もがよく体験することである。
 なぜなら、読書というのは一種の精神の作用であり、また本という媒介を通じておこなう他者との対話に他ならないからである。そして、読書をする自分の心が乱れてしまっていては、その対話は成立しない。さざなみひとつない湖面が鏡のように周囲の景色を映すように、本の中に秘められたメッセージを受け止めるためには、平静な心を保てなければならないのだ。

 本を読むことはたやすいことのように思えますが、思うほどたやすいことではありません。本を読むには、積極的に心を働かなければならないからです。

 本書『本という不思議』の中で、著者である長田弘はこのように述べているが、この「積極性」という言葉は、著者の本へのかかわりの根幹を成すものだと言うことができるだろう。ともすると、ただの受け身的行為としてしか受けとられかねない読書について、積極的にかかわる、ということ――それゆえに、著者の本へのかかわりは、たんなる読書という枠を越えて、さまざまな方向へと広がっていく。

 たとえば、本という形について。たとえば、本を編集する人について。たとえば、本の書き手について。たとえば、本屋という空間について。ときには物語がもたらす作用について述べ、かと思うと、子どもたちの草野球について触れ、そのことで、自分たちが無自覚におこなっている読書という行為を振りかえる。ただ眺めるだけで「読まない」「読まなかった」というのも、本屋でのちょっとした立ち読みも、「積ん読」を楽しむというのも、すべてひとつの読書の形であると語る著者の、自由自在な本へのかかわりは、けっして受け身的なものなどではなく、それが孤独な作業であるがゆえに、他の誰でもない「私」個人が積極的にかかわらなければ成り立たないものであることを、あらためて教えてくれるものである。

 本を手に入れる。何の本を、いつ、どこで、どうやって? 本を読む。何の本を、いつ、どこで、どうやって? 本を蔵う。何の本を、どこで、いつまで、どのようにして?
 それだけの疑問をらくらくと容れられるだけの、ゆっくりと、ゆったりとした容積を、わたしたちの日常はどうももっていないのです。

 めまぐるしい勢いであらゆる価値観が変化していく今の時代において、私たちは知らないうちに、その流れに取り残されてしまうことを恐れて生きているのではないかだろうか。それでなくとも人々は、日々の生活に、将来のことに、ことさら不安を抱いているのが現状だ。情報化社会という名の情報の氾濫を前にして、私がふと思うのは、言葉がたんなる情報伝達の道具として、あまりにも安易に使われすぎてしまっているのではないか、という一種の危惧である。

 そういう意味で、本書の書き手が詩人である、というのはきわめて象徴的なことのように思える。なぜなら、詩人というのは言葉で芸術を築く人たちであり、それゆえに言葉というものを誰よりも重んじ、また愛しているからである。じっさい、本書の中に収められているさまざまなエピソードの中には、本のことばかりでなく、詩そのものについて、そしてなにより1冊の本から浮かび上がってくる人物の生き様について、じつに生き生きと書かれている。そしてそれらのエピソードのひとつひとつが、私たちが時代の波に乗り遅れまいとしてすっかり忘れてしまったもの――自分の内に流れる時間にあらためて目を向けることを思い出させるのである。

 文章を書くという行為が孤独な作業であるのと同様に、本を読むという行為もまた、孤独な作業である。ひとりぼっちであること――ときに人は孤独であることを恐れるが、それは同時に今、ここにある自分自身を見直すことにもつながっていくものでもある。本書の中でとくに印象的なエピソードとして、子どもたちが同じ絵本を何度も繰り返し読むということを取り上げたものがあるが、私たちの感覚であれば、一度読んだ本は、そのあらすじを知っているがゆえに、よほどのことがなければ再読することはないのに、子どもたちが同じ絵本を飽きもせずに読みつづける理由として、子どもたちが、本の中にある「何か」を読むのではなく、「どのように」を読むのだと著者は語っている。

 つまり、絵本の中に書かれているものは同じはずなのに、子どもたちは毎日、それぞれが違った読み物として絵本を読み、遊んでいるのだ、という捉え方は、「繰り返し」のなかにたったひとつのものしか見ることのできない私たち大人の常識に大きな揺さぶりをかけてくる。そしてそれは、ある意味子どものような自由な発想で言葉と向かい合い、詩を創作していく著者だからこそ気づいた、ひとつの真実だろう。

 ひとりぼっち、という状態に立ち戻って行なう「読書」という行為――たかが読書と言われてしまえばそれまでであるが、合理性や速度といったものがますます求められていくであろう今だからこそ、ゆっくりと落ち着いて他者と、そしてなにより自分自身と対話する「読書」という時間を、自分の繰り返しの生活への反逆として、取りこめるようになりたいものである。(2002.04.22)

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