【朝日新聞社】
『贋作『坊っちゃん』殺人事件』

柳広司著 
第12回朝日新人文学賞受賞作 



 臆病者と言われて喜ぶ人間は誰もいないが、臆病であるというのは、裏を返せばそれだけ物事に対して慎重な姿勢でのぞむことができる、ということでもある。豪胆な性格だと言われれば悪い気はしないだろうが、豪胆さはしばしば後先考えない無鉄砲さにつながり、それゆえに周囲の人たちが迷惑することもある。表裏のない天然系はときに思慮深さに欠け、真面目な性格はそれゆえに融通が利かないこともある。そんなふうに考えると、人間の性格というのは、けっして個人的良し悪しや善悪といった判断では測りきれないものがあると言わなければならない。それは逆にいえば、どんな性格の持ち主であっても、かならず長所と短所をあわせもつということでもある。

 英雄と独裁者といえば、まさに天と地ほどの違いのある存在であるが、はたしてこのふたつのあいだにある違いとは何なのか、と真面目に考えたとき、そこに驚くほど多くの共通点があることに気づくことになる。どれほどの聖人君子であっても、すべての人間に好かれることはけっしてありえないし、どんな大悪党であっても、すべての人間に嫌われるわけではない。世の中というのは、物語世界のように単純ではなく、私たちが考える以上に複雑でややこしいものだというのは、たとえ頭のなかで理解はしていても、感情的なレベルにおいてはなかなか容認しがたいものがあるのかもしれない。けっきょくのところ、人というのは自身の主観からはなかなか逃れられないものなのだ。

 それからそれへと思案を巡らせているうちに、おれは何だか気持ちが悪くなってきた。現実がくるりくるりと裏返って、目が回るほどだ。――(中略)――三年前、おれが当地で見たと思っていた世の中は何だったんだ? 急に自分が、複雑な関係性の中に生きていることを突き付けられた気がした。

 本書『贋作『坊っちゃん』殺人事件』は、そのタイトルからして一目瞭然だとは思うが、夏目漱石の初期の作品『坊っちゃん』の世界を下地として構成された、いわば『坊っちゃん』のオマージュであり、そういう意味では小林信彦の『うらなり』と同じ位置に立つ作品である。喧嘩っ早くて無鉄砲、直情的な性格で、他人がどうであろうと自分が思うがままの道をまっすぐ突き進んでいく、典型的な江戸っ子気質の青年が、四国の田舎の中学の教員となったものの、けっきょくはいけ好かない教頭とその太鼓持ちの教師に鉄拳制裁をくらわして、教師を辞めてしまったというのが『坊っちゃん』の簡単な顛末であるが、本書はその顛末から三年後のことを描いている。東京に戻ってきた語り手の「おれ」は街鉄の技手となっていたが、ひょんなことから「山嵐」こと堀田と再会したさいに、教頭の「赤シャツ」が自殺していたという話を聞く。それも、「おれ」と「山嵐」が「赤シャツ」と「野だいこ」に天誅をくわえた、まさにその日のうちに、無人島で首を括ったのだという。

 はたして「赤シャツ」は、本当に新聞が発表したように覚悟の自殺だったのか? 人を金で懐柔しようとしたり、のらりくらりと言い訳をこしらえては自己保身に走ったりするようなあの教頭が、自殺するとはどうしても思えない――「山嵐」同様、その死に本能的な不信感をいだいた「おれ」は、その真相を確かめるべく再び四国の田舎町へと舞い戻ることになる……。

 「赤シャツ」の不審な死からはじまって、そのとき彼とともにいたマドンナのことや、気が狂って癲狂院に入れられてしまった「野だいこ」の存在など、なんとなくその裏に不穏な何かが漂ってくる展開となる本書であるが、原作『坊っちゃん』をご存知の読者であれば、何より本書が当初こそ原作のもつ雰囲気を忠実に踏襲するような形をとりながら、物語が進んでいくうちにその雰囲気が次第に剥がれ落ちていって、いつのまにかまったく知らない物語を読まされてしまっているという事実に気がつくことになる。そう、本書は『坊っちゃん』のオマージュである以上、当然のことながら原作を知っているほうがより本書の展開を楽しめるのは間違いないところだが、あまりに原作への思い入れが強いと、それがゆえに本書のなかで次々と明らかになる意想外な事実の前に、かえって困惑してしまうことになる。そして、原作を知るがゆえの読者のこの困惑は、それこそ著者の思うつぼでもあるのだ。

 私たちがよく知る『坊っちゃん』というのは、きわめて明確な対立構造をもつ作品であり、「坊っちゃん」一派=善、「赤シャツ」一派=悪という勧善懲悪の形を当てはめることができる。それは読者にしてみれば、たいして頭を使うことなくすんなりと読み解くことのできる娯楽性を共有できる作品であり、だからこそ「坊っちゃん」の鉄拳制裁が胸のすく行為として受け入れられることになる。だが本書の場合、こうしたわかりやすい物語構造に対して、なかば意図的に複雑な事情を絡めようとする意思が少しずつあらわになっていく。それも、原作『坊っちゃん』において印象的だったシーン――たとえば、「坊っちゃん」と「山嵐」が巻き込まれた生徒同士の喧嘩事件や、「坊っちゃん」が宿直だったときに起こったバッタ騒動、結婚を約束していた「マドンナ」を教頭に奪われたあげく、僻地に飛ばされてしまった「うらなり」のことなどについて、まったく思いもかけない事実が次々と突きつけられてくる。ましてや語り手が田舎田舎と馬鹿にしていた土地が、とある思想をめぐって対立と衝突を繰り返していた最前線であり、そこに「赤シャツ」や「山嵐」、さらには「坊っちゃん」の前任者などが深くかかわっているという事実が持ち上がるにいたって、私たち読者はそのあまりのギャップの大きさに唖然とせざるを得なくなってしまう。そしてそれは、知らないうちに三年前のさまざまな騒動の中心に立たされていた「坊っちゃん」もまた同様である。

 はたして、東京という都会から四国の田舎町へと赴任してきた三年前の「坊っちゃん」は、そこに住む人たちにとってどのような存在だったのか――本書が見事なのは、一見すると殺人事件をからめたミステリーという体裁をとり、原作におけるこまかい部分にいたるまで謎解きの伏線として利用していながら、その中心にいるのはあくまで「坊っちゃん」であることをちゃんとわきまえた物語構成となっている点だ。原作でも本書でも、「坊っちゃん」という呼び名は語り手のものの知らないところ、まわりを見もしないで突っ走っていく無鉄砲さを揶揄する意味で用いられており、当人もその名で呼ばれるのをこのうえなく嫌っている。だが、同時に私たちは、彼が唯一慕っていた清もまた、彼のことを死ぬまで「坊っちゃん」と呼んでいたことを思い出さなければならない。そして本書における最大の謎が解き明かされたとき、私たちはあらためて「坊っちゃん」という言葉がもつ二重性、けっして単純ではありえない人間の性質について思い知らされることになる。

 それまでよく知っていたはずの、なんてことのない新米教師の個人的騒動記であったはずの物語が、いつのまにか国の存亡をかけた争いにまで発展してしまうという、ある種とんでもないその落差は、たしかにそのタイトルに「贋作」という名を冠するに値するものがある。だが、ここでいう「贋作」というのは、けっして原作に劣るという悪い意味ではなく、むしろ原作をどこまで膨らませることができるのか、その限界に挑んだ意欲作として評価されるべきものがある。原作のイメージにこだわらないという方は、ぜひ手にとってみてほしい。(2007.08.27)

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