【早川書房】
『鳥姫伝』

バリー・ヒューガート著/和爾桃子訳 
1985年世界幻想文学大賞受賞作 



「見たかい、あれはね、何ごともあきらめちゃいけないってことなんだよ。中国じゃ、何だってできるんだ」

 つつしんで拍手し、四方拝をおこなう。
 私の名前は八方美人男。だが、八方美人なのは人に対してではなく、本に対してだけだ。「読んだ本はみんな褒める」などという酔狂な誓いをたてたあかしとして、自分からそう命名した。そんなわけでこれから紹介する本書『鳥姫伝』についても、書いていくことは褒め言葉ばかりになるが、褒めるにしたところでそもそもどのような内容の作品なのかがわからなければ、どんな美辞麗句もただ空回りするだけだ。だから、この奇想天外ながらもどこか幻想的な美しさが漂い、そして感動的な中国ファンタジーのあらすじから、まずは書いていくことにしよう。

 舞台となるのは現代からずっとさかのぼった唐の時代。湖と防壁という名所がある程度の小さな村庫福(クーフー)で、八歳から十三歳までの子どもたちが次々と悪疫で倒れていくという異変が起こった。力の強さだけがとりえの、みんなから十牛と呼ばれている少年は、村を災厄から救う賢者をさがして北京の天眼路におもむくが、そこで出会ったのが、半眼の看板をかかげる老賢者の李高。身なりや住まいこそみずほらしいかぎりだが、じつはかつて科挙の試験を首位で合格するだけの明晰な頭脳の持ち主である李高は、さっそく村を襲った悪疫の原因を見抜いてしまうが、肝心の猛毒に犯された子どもたちを救うには、大力参なる特殊な人参で薬を処方するほかにないことを悟る。

 こうして、幻の人参をもとめて十牛と李高の旅がはじまる。十牛はこれまで自分の生まれ育った田舎村のことしか知らない、いかにも純朴な少年。いっぽうの李高は、さまざまな知識と豊富な経験をそなえた、抜け目ない老賢者。それぞれが力と知恵を武器に、お互いに足りないものをおぎないあうようにして困難な探索の旅をつづけていくという展開は、いかにも正統なファンタジーを思わせるものだが、何より本書の大きな特長は、彼らの探索の旅のつづけかたが、ある意味で気持ちいいほどの狡猾さをともなっているという点だ。

 知恵と力、と私は書いたが、力といっても十牛のもっている力とは、せいぜい人より多少体力と腕っぷしがあるといった程度で、老人を背負って走ったり、李高の代わりに作業をおこなったりすることはできても、ひとりで何百人を相手に戦うことができるような、常人離れした力をもっているわけではない。だから、彼らが困難に直面したさいに発揮されるのは、李高の知恵である。それも、どちらかと言えば悪知恵といったほうが良さそうな代物だ。

 たとえば、大法螺や詐欺などはその最たる例だろう。金貨の混じった糞をする山羊をわざわざでっちあげ、まんまと大金をせしめたり、いかにも人間に深刻な害をおよぼしそうな疫病をよそおって兵士たちを遠ざけ、まんまとピンチを切り抜けたり。かと思えば、即席の飛行機械を組み立てて空を飛んだり、悪名高い結社の人間のみが知る符丁を演じて悪漢たちを味方につけたりといった知識を披露することもあるこの李高、なかなかの食わせ者めいた、賢人というにはいささか俗人臭さがにじみ出ているかのような好々爺であるが、そんな彼らが立ち向かわなければならない相手が、他ならぬ強大な権力をもつ皇祖娘子や、地下迷宮の支配者である秦王といった、ふつうならどう逆立ちしても太刀打ちできるはずもない権力者であるからこそ、そんな彼らをまんまと出し抜くような詐術を披露するふたりの活躍は、読者に胸のすくような快さをもたらすことになる。

 息もつかせぬ奇抜な発想と展開の連続、そして古代中国を舞台としたファンタジーとしての要素によって、読者の興味を一気に惹きつけていくだけの力のある本書だが、村の子どもたちを救うための薬草を手に入れるべく、あるときは地下深くの迷宮や、あるときは溶岩に囲まれた砂漠の宮殿といった危険な場所をめぐっていった十牛と李高は、その旅の途中にいくつかの謎と遭遇する。古の女中の幽霊、宝物庫で手に入れた不思議な笛や水晶玉、庫福村の子どもたちが発した謎の言葉、そして不死身の秦王と、とある抹消された神話――いっけんすると、彼らの当初の目的とはあまり関係なさそうなこれらの伏線が、物語が進むにつれて徐々にひとつながりになり、ついにははるか天界にまで大きな影響をおよぼしかねない、思いもよらぬ大きな謎に直前することになるという展開は、じつはファンタジーというよりは、むしろミステリーとしての要素が強い。じっさい、本書のなかではしばしば、李高を探偵役としたちょっとした事件の謎解きをするような場面が何度かあるのだが、この物語自体が、最後には私たちもよく知っている、ある壮大な伝承をベースとした物語であることがあきらかになるという展開の仕方は、それまで本書の主要人物である十牛の純朴ぶりや、李高の俗人めいた性格にさんざん慣らされてきただけに、まさに意表をつき、またそれゆえに感動的でもある。

 上述したように、本書は古代中国を舞台としたファンタジーである。そして、古代を舞台とする物語というのは、えてしてその登場人物も、いかにも神に選ばれし者といった重い宿命を背負っていたり、何か超人めいた力を秘めていたりする場合が多いのだが、本書の十牛と李高は、そんなありがちな古代ファンタジーの登場人物とは対極に位置するような、言ってみればちっぽけな人間にすぎない。たしかに李高はさまざまな知識と知恵をもつ賢人であるが、同じ賢人でもそれこそ不老不死の秘術さえ知っている「山の老人」の超人ぶりには遠くおよばない。だが、そんなちっぽけな人間だからこそ、弱い者たちの痛みに共感し、人の心を踏みにじるような行為に対して真摯に憤ることもできると言える。そしてそんな、人間ならではの感情は、おそらく天界に住まう神々ですら持ち得ない奇跡、それこそ「何だってできる」力の源でもある。

 つつしんで拍手し、四方拝をおこなう。
 この物語が読者のみなさんの心にほのかな光をもたらしますように。物事が最後には正しい方向への向かっていく必然を信じることができますように。そして、七夕という祝いの日が、これまでとは違ったものとして、あなたの心にいつまでも残りますように。(2005.07.31)

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