【文藝春秋】
『ビブリオバトル』
−本を知り人を知る書評ゲーム−

谷口忠大著 



 私がインターネット上に自分のホームページを開設し、読んだ本の書評めいたものを書きはじめたのは1998年の10月くらい。それまで、せいぜい企業の一部がホームページを開設している程度だったのが、いつのまにか個人がいろいろなホームページを作りはじめ、仕事の関係でそうした個人の読書感想をネット上で読む機会を得たのが直接的なきっかけである。当時から読書についてはそれなりに興味をもっていた私が、インターネット上に私がそれまで知りようもなかった本の情報が掲載されていること、しかもそれが、自分と同じ個人の読書家によるものであることを知ったときの衝撃は、今もなお言葉にするのが難しいものがある。

 もともとひとりで行なうものであった読書という行為は、インターネットの普及とともに大きく変化した。自分が情報の発信源のひとつとなることで得たものは、今もなお私にとって大きな財産となっているし、ネットをつうじて同じ趣味をもつ多くの人と知り合い、またそのうちの何人かとはオフラインで今でも会ったりする仲になっている。ネットがなければ読むことはおろか、その存在すら知ることはなかったであろう多くの本に触れることもできた。しかしながら、それから時が経ち、HTMLでホームページを構築する段階からワープロ感覚で文章を投稿できるブログへと隆盛が移り、さらにmixiなどのSNS、TwitterやFaceBookといったソーシャルメディアが台頭していくにつれて、ネットを通じて同じ趣味人とより深く知り合うといった機会は、以前よりも減ってしまったという実感がある。

 そうした感覚の要因を考えたときに、ひとつ思い当たるのは、本の感想をはじめとする情報について、「誰が」という部分が希薄になってきているというものだ。現在、ネット上には本の感想が文字どおり溢れかえっている。気になった本の評価を知りたければ、Amazonのレビューを開けば、じつに多くの人がそこにコメントを残してくれている。これだけ大量の感想が溢れてしまうと、もはやそこに「個性」といったものを見出すのは逆に難しくなってくる。ブログという形式についても、それぞれの本の感想に対するコメントをつけることはできるものの、その感想を書いた本人にアプローチするという感覚が、たとえば掲示板といったツールと比べると低いように思えてくる。むろん、私が古いタイプの人間だからと言ってしまえばそれまでであるが、かつてあったはずの、インターネットを介した人と人とのコミュニケーションの希薄感は、私にとってけっこう深い問題のひとつとして、心のなかにわだかまっている。

 正直なことを言えば、もはや個人が個人の名目で本の感想なり書評なりをネット上に載せるという行為は、少なくとも「情報を発信する」という意味ではもう寿命を迎えていると思っている。本の情報は、ある特定の個人が孤軍奮闘せずとも、不特定多数の「誰か」がネットに載せてくれる。たとえ個々は瑣末な感想であっても、数が集まればだいたいの評価も内容も見えてくる。私が本書『ビブリオバトル』を手にとったのは、私の勤める会社でもこの書評ゲームが有志で行なわれたという経緯があってのことであるが、本書を読むことで私の抱えている問題の、ひとつの回答が見えたような気がしたのは思わぬ副産物だったと言える。それは、個人が個人として本の感想を述べるという行為が、インターネットという仮想現実から、リアルな現実へとシフトしつつある、という感覚である。

 それは、ビブリオバトルが「本を知る」「本と出会う」ためだけのものではないということだ。ビブリオバトルが「人を通して本を知る」だけでなく「本を通して人を知る」場であるということにこそ、真の魅力がある。そして、それが本質なのである。

 参加者が紹介したい本をそれぞれ一冊用意し、順番を決めたうえでひとりずつ五分間でプレゼンを行ない、終了後に二分程度の質疑応答の時間をとる。そして最後に全員で「読みたくなった本」に投票を行なって「チャンプ本」を決める――これが「ビブリオバトル」における公式ルールとなっている。逆に言えば、最低限守るべきことはこれだけであり、じっさいにやってみればわかるが、非常に簡単にできてしまう。本書にはこうしたビブリオバトルの遊び方(ミニ小説付)のほかに、そもそもビブリオバトルがどのような経緯で誕生し、そして今のような形となっていったのか、それからこの書評ゲームがどんなふうに広がっていったのかを解説しているのだが、このバトル形式のゲームがもともと理系の大学の研究所で誕生したこと、そしてその下地として、コミュニケーションに対するラディカルな命題が隠されているという点は興味深い。

 著者の専門は情報工学であり、機械と人間とのインターフェイスや知的システムといった分野の研究者なのだが、それゆえに「コミュニケーションとは何か」、という定義の問題が常についてまわったということが本書には書かれている。それまで世の中に存在しなかった、まったく新しい事物が誕生する過程というのは、それだけでもおおいに興奮させられる要素をもっているが、ぶっちゃけてしまえば、ビブリオバトルというのは、そうしたラディカルなテーマをゼミという集団で勉強するさいに誕生した副産物にすぎない。だが、それゆえにこの書評ゲームの本質は明確である。そしてその中心にあるのは、紹介される本ではなく、本を紹介する「人」にこそある、というのが本書のもっとも伝えたい点である。

 たとえば、ビブリオバトルのプレゼン時間が五分と決められているのも、ゲーム形式で勝敗を決めるというのも、参加者にいかに自分のお勧めの本を紹介するかに注力させるためのものである。自分の本を「チャンプ本」にするためには、たんにレジュメにまとめたものを読めばいいというわけでなく、対面にいる参加者の興味をいかに引くか、というテクニックを必要とするし、参加者にウケそうな本は何なのかを掴む必要もある。そのためには、何より相手のことをよく知る必要があるわけだが、それこそがコミュニケーションの第一歩となると本書は語る。

 五分という時間は、本のあらすじを述べるだけでは時間が余ってしまう。ビブリオバトルでは、規定の五分になるまで何か喋らなければならず、それゆえにそこに当人のアドリブが入り込む余地がある。じつはビブリオバトルの面白さはそのアドリブの部分にこそあるのだが、なぜならそこに当人の地の姿が透けて見えるからに他ならない。そんなふうに考えると、このゲームはシンプルではあるが、なかなかによく練られたルールのもとに行なわれていることがわかる。そう、このバトルはたんに「良い本」を紹介するだけでは勝者にはなれない。できるだけ多くの参加者に「面白そう」だと思わせるようなプレゼンをした人こそが評価されるバトルなのである。

 ビブリオバトルはインターネットという仮想空間とはまったく関係のない、リアルな人間同士がリアルな場に集まって行なうゲームだ。だが、「本を通じて人を知る」というビブリオバトルの本質は、かつてHTMLでホームページを構築してきた時代における本の感想サイトに濃厚だった「誰が」の要素がたしかに存在する。ある本の感想にたどり着き、「この人は他にどんな本を読んでいるんだ」という興味へとつながる、あるいは自分のサイトの掲示板や電子メールに、「こんな本があるよ」というお勧めが紹介される――こうした「人」を意識した本の情報を、本書では「「意外な本」だけど「読みたくなる本」を推薦する機能」と呼んでいるが、現在ネット上では希薄になりつつあるそうした要素が、ビブリオバトルというリアルな場に現れているというのは、何か時代の推移をリアルタイムで体験しているかのようなダイナミズムを感じずにはいられない。

 インターネットの普及は情報の氾濫を生み、私たちは多くの情報に接することができる恩恵よりは、膨大な情報になかば溺れかかっているような状態にある。そんななか、他ならぬ「誰が」その情報を発信したのかに注目したビブリオバトルは、今という時代に人が何を求めているのかを示す、ひとつの指針となるのではないかと私は思っている。ブッククロッシング同様、これからの展開に目が離せない活動となりそうである。(2013.10.09)

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