【東京創元社】
『バイバイ、エンジェル』

笠井潔著 



 現在、あらゆるジャンルを超えて、キャッチセールスのごとく使われている、いわゆる広義のミステリーではなく、多少古めかしい匂いのする、読者参加型――読者が探偵となって犯人を推理する、という意味で――の傾向が強い「探偵小説」を読むとき、私はほぼ例外なく、その犯人を当てることができない、という事実に直面することになる。その事実は、けっきょくのところ人間というものが自分の見たいものしか見えず、聞きたいものしか聞けないものだ、ということの証明であり、動物としての本能や、生きて子孫を残したいという原始的衝動がもたらすさまざまな欲望から解放され、真に自由意志を保ちつづけることがいかに困難であるか、つまり、私たち人間がいかに不自由な存在であるか、ということの証明でもある。

 そのような方面から「探偵小説」をとらえたとき、そこにはたんに、人間の死を記号としてしかとらえない、登場人物の人間味に乏しい薄っぺらな物語ではなく、もっと深い意味が立ち現われてくる。小説家であり、文芸評論家としても有名な笠井潔は、『探偵小説論T 氾濫の形式』のなかで、探偵小説を「大戦が生産した無意味な屍体の山に対する意味づけ、再定義の必要性から生じたもの」として位置づけている。そして彼は本書『バイバイ、エンジェル』のなかで、人間でありながら死者の人間性を回復させる「探偵」という役目を、謎の日本人青年である矢吹駆に託すことになる。

 暗鬱な曇天の下、冷たい石に囲まれた冬のパリ――どこか人の心をも陰気にさせるような灰色の首都に舞い込んだ、一枚の脅迫状からはじまった、ラルース家のおそるべき連続殺人事件に、推理競争という形でかかわることを余儀なくされた矢吹駆は、本書の語り手であり、矢吹と同じく推理を競うことになる、勝気な女学生ナディアと同じ大学に通う学生として登場する。自らの過去についていっさい語ろうとしない、しかし同年代の人たちと比べ、はるかに多くの物事を経験してきたことを窺わせる、どこかニヒリストを思わせるもの静けさと落ちつき、そして孤独を好み、人を寄せ付けようとしない冷ややかな態度を身にまとっているこの日本人青年のもっとも大きな特徴は、現象学の体現者――たんに思考上のものではなく、実際の生活すべてを現象学的に還元することを試みている、ということにつきるだろう。

 フッサールが創唱した哲学的方法のひとつである現象学について、私はけっして明るくはないが、探偵小説というジャンルにおける、犯罪推理の枠組みの中で、矢吹駆という名の現象学がどのように機能しているのか、という点についてなら、述べることができる。それは、ごく簡単に言えば、調査によって集められた多くの事実に対して、人間が人間であるがゆえに陥ってしまう先入観や偏見といった、あまりに人間臭い心理から解放された、現象学で言うところの「純粋意識」の立場から事実をとらえ、その本質を――事件の真相を究明しようとする試みなのである。

 そういう意味では、一日に一食しかとらず、余分なもののほとんど置いてない粗末な部屋で簡素な生活をつづける、修道士のような矢吹駆こそ、「探偵」という人間離れした役割を果たすにふさわしいと言うことができるだろう。だが同時に、彼の現象学的推理は、心ならずも道化の役目を演じてしまったナディアの存在があるからこそ輝いてくるものであるとも言える。それはナディアが、観察と推論と実験という、近代の合理的精神の具現者としての探偵――ときにおそろしくアクロバティックな推理を強引に推し進めていく探偵として、オデットの首無し死体を即座に「犯人の入れ替え」という、いかにも探偵小説愛好家らしい推理を披露したからこそ、矢吹駆の以下の言葉が生きてくるのだ。

 本来無限の意味を秘めている事物が、ただひとつの意味にだけ固定されて扱われていく事態を、現象学者は<意味沈殿>という言葉で表現しました。――(中略)――ところが、マドモワゼル・モガールをその一員とする探偵小説愛好家の眼には、首なし屍体という事物はたちどころにある種独特の<意味沈殿>を惹き起こすのです。それは、無限に多様であるべき首なし屍体の意味を、犯人による被害者の隠蔽であり、つまるところその屍体が誰のものであるか判別し難くするための作為であるという点においてのみ一義的に固定化するものです。

 そこには、奇想天外なトリックこそがすべてである、という一部の本格ミステリーに対する、著者自身の反論が仄見えている。それは探偵小説を、無個性な死体の人間性の回復だとする著者の、いかにも著者らしい意味づけだと言えるだろう。そして著者は、本書の連続殺人事件の根底に「観念的な殺人」を導入することで、じつは殺人事件の動機として必ずといっていいほどつきまとう怨恨や復讐、あるいは動機隠しのための「無意味な殺人」といった、いかにも感情的な殺人を大量生産する、いわゆる広義のミステリーへの反論でもあるのだ。

 では「観念的な殺人」とは、いったいどういうものだろうか。それは殺人という、人の命を奪うというあまりにも重い行為さえも正当化してしまう、強烈な精神が生み出す殺人である。たとえば、ナチスドイツによるユダヤ人の大量殺戮、あるいはオウム心理教による地下鉄サリン事件――こうした異常な事件の裏に見えてくるのは、高潔な理想という名の観念にとり憑かれてしまった人間たちの狂気である。自分が正しいと信じて疑わないがゆえに、殺人をも正当化してしまう精神、それはまさに、芸術や信仰といった、生きるためには何の役にも立たないもののために血道をあげる人間しか持ち得ない精神であり、その産物である「観念的な殺人」こそ、著者が考える真に人間的な行為だと言うことができるだろう。それはまさに、人間回復のミステリーと言うにふさわしいに違いない。

「人間は、闇のなかに潜む暗い大いなるなにかに操られる人形なのだ」と矢吹駆は語る。だが、その事実を認めたうえで、それでも生きようと、生きる意味を見つけようとあがくからこそ人間なのだ、とも言える。けっして明るくはない人間の営みの色にふさわしい灰色の街に、まるで何かを訴えるかのように飛び散った真紅――はたして矢吹駆は、そこにどのような本質を見出したのだろうか。(2001.08.27)

ホームへ