【講談社】
『亡国のイージス』

福井晴敏著 



 私たちの住むこの日本の将来に、一度ならず不安を抱いた人は、けっして少なくないはずである。その不安の最大の原因は、私たちがまぎれもない日本という国の民であり、日本という国で生きている、という意識があまりにも希薄になってきている、という点にあるのではないだろうか。戦争を放棄した平和国家を標榜しながら、アメリカの言うがままに自衛隊を組織するという、その矛盾に対して誰も真剣に取り組もうとせず、過半数の同意を得られなければ何もできないという中途半端な民主主義に踊らされて、もっぱら党や派閥の利益ばかりを優先したあげく、過去に犯した戦争犯罪に対しても、国防や外交に対しても、その場しのぎの政策しか取ろうとしない政治家や官僚の姿を見るにつけ、日本という国は、いったいどこにあるのだろう、と考えずにはいられなくなる。
 国家斉唱、国旗掲揚そのものが大問題となってしまうという、他国にとっては笑い話でしかない現実をもつ日本――それは、先の見えない未来を正面から見据えようとせず、個人の自由という名の権利を振りかざしながら、自分のとった行動の責任すら負うことのできない幼稚な大人、理想論ばかり唱えて現実を無視することに何の恥じらいも感じない今の大人たちの姿をそのまま反映しているように思えてならない。

 理想の大人像を描くことのできないのと同じように、私たちは自分たちの国の理想的な姿を描く能力を奪われてしまっている。自分たちの国であるはずなのに、その形をつかむこともできないこの日本は、いったいいつになったら自分の力で立って歩くことができるようになるのだろうか――そんな、国に対する純粋で一途な想いを論文という形で公表した、一人の若者がいた。そして彼の行為は結果として、本書『亡国のイージス』で起こった一連の事件の発端となってしまうのである。

 沖縄の米軍弾薬基地をまるごとひとつ消し去った、前代未聞の爆発事故――「辺野古ディストラクション」と、それに続いて起こった北朝鮮の弾道ミサイル騒動によって、俄かに実現へ向けて動きはじめた、世界的なミサイル探知・迎撃網である戦域ミサイル防御機構(TMD)――アメリカが中心となって進めてきたそのTMDに、、日本の海上自衛隊は、全護衛艦にイージス・システムを搭載する、という形で参加することを決定した。同時に十二個の目標への攻撃を可能にするほか、対空ミサイルの装填やレーダーの精度も従来のそれをはるかに凌ぐそのハイテク技術の搭載は、もし実現すれば日本上空に鉄壁の防空網を敷くことが可能になることから、それまでの対米政策を一変させる切り札として、大いに期待されていた計画でもあった。だが、その試作型としてはじめてイージス・システムを搭載したミサイル護衛艦《いそかぜ》は、旧式の護衛艦《うらかぜ》との遭遇戦演習を目前にして突如、軍に反旗をひるがえし、北朝鮮の工作員であるホ・ヨンファと結託、彼が持ち込んだ細菌兵器――東京都民一千万人を殺傷可能なその兵器をミサイルに搭載し、こちらの要求に応じなければミサイルを都心に発射すると宣言したのである。《いそかぜ》艦長、宮治弘隆を含めた幹部らの突然の裏切り行為――しかも、北朝鮮工作員のテロ活動を支援する、という最悪な形での叛乱の裏には、自分の信じてきた国に対する憎悪と絶望にとりつかれた、ひとりの父親の狂気があった。

「辺野古ディストラクション」と、北朝鮮の弾道ミサイル騒動の裏に隠された、日本、アメリカ、北朝鮮のそれぞれの思惑――まるでゲームのように国や人を動かし、国際社会の場において少しでも優位に立とうと薄汚い権謀術策を張り巡らせる各国の思惑は、かならずしも国民ひとりひとりが抱く理想と一致するわけではない。大局に目を向けることしかできない者にとっては、個人の幸不幸などいちいち気にとめてなどいられない、いや、むしろ国家の存続のために、多少の個人の犠牲はやむをえない、という必要悪すら容認するのが、国を動かしていく、ということなのかもしれない。だが、無責任な個人主義が横行するなか、真摯な態度で自国の未来を憂えていたひとりの若者が、その潔癖さゆえに「国の不利益」とみなされ、闇から闇へと葬られたという事実を知ったとき、その父親であった《いそかぜ》の艦長は、自分がこれまで仕えてきた日本という国に復讐する、という道を選んだ。

 はたして、東京は最悪の細菌兵器によって死の世界と化してしまうのか、それとも《いそかぜ》の要求を受けいれてすべてを暴露し、国際社会を底知れぬ混沌へと導いてしまうのか? すべては、防衛庁情報部のスパイとしてあらかじめ《いそかぜ》へと潜入をはたしていた如月行と、同じく《いそかぜ》のクルーでありながら、幹部達の裏切りによって艦から切り離されたことを憤り、なにがなんでも《いそかぜ》を取り戻すことを決意した先任伍長の仙石恒史、このたった二人だけの抵抗に託された……!

 あらゆる意味で、日本人であることの良さと悪さを考えさせられる作品である。そして、それは同時に人間でありつづけることの弱さと強さを考えることにもつながる。殺された息子の復讐のために人間であることをやめようとしながら、最後の一線をどうしても踏み越えることのできない宮津艦長と、個を捨てて国のために戦いつづけたあげく、祖国救済をあきらめてアメリカに歩み寄ろうとする北朝鮮の実情に絶望した反動として、戦争の残酷さを知らない日本人の甘さ、愚かさを嘲笑う行為を繰り返すホ・ヨンファ。あるいは、自分の手で父親を殺し、けっして逃げないことを自らの掟として、過酷な世界でひたすら強く生き続けながら、普通の人間としての自分をどうしても捨てきれず、闘争的な自分の性を嫌悪するという二律背反に苦悩してきた如月行と、人間の弱さを完全に否定し、その弱さを超越しようとしたあげく、人間として悩み、苦しみこと自体を放棄してしまった暗殺者チェ・ジョンヒ――どちらが強いのか、と聞かれれば、私はあきらかに後者のほうを選ぶだろう。だが、後者のほうにはたして未来があるのか、と問われれば、おそらく否と答えるだろう。殺さなければ殺される、それが戦争であることは、理屈では理解できる。そして、戦争という生々しい現実から目をそむけておきながら、戦争を放棄することができるとうそぶく甘えを許されてきた今の日本人が、とことん傲慢な民族であることも、国際社会からすれば、おそらく事実なのだろう。
 だが、その甘えを徹底的に排除し、先手必勝の論理をふりかざして人を攻撃していては、仙石の言うように「撃たれる前に撃って、人が死んで、また殺し返して……。終わりがねえじゃねえか」ということになってしまう。

 戦争の痛みを実感できる奴なんてひとりもいない。反対って唱えてりゃ、自分たちは安全だって思い込んでる。――(中略)――そんなのは本当の平和じゃねえ。嫌なものを見ないようにしてるだけだ。そうじゃなくって、そういう辛い現実があるってことを認めて、ちゃんと備えて、その上で考えていかなきゃ……。生き残るためには戦う、でも一瞬でもいい、自分たちは撃つ前にためらうんだって覚悟で、みんなが自分の身を引き締めていけば……その時、日本は本当の平和国家になれるのかもしれない。

 戦争が上手にやれたところで、良いことなどなにひとつない、という真実――だが、その真実を想像するだけの力すら持たない私たち日本人、そして日本という顔のない国家が、今後どのような目標をもち、成長していくのかを、著者は本書で示したかったのではないかと思えてならない。「イージス」とは、どんな攻撃もはね返すという、ギリシャ神話で登場する楯のこと。その楯を真に正しく使いこなすことのできる国を目指しはじめたとき、はじめて私たちは、日本という祖国に対して誇りをいだくことができるのかもしれない。(2000.05.17)

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