【新潮社】
『真夜中の五分前』

本田孝好著 



 愛って何なんだろう、なんていかにも気恥ずかしいようなことを考えずにはいられないものが、今回紹介する本書『真夜中の五分前』のなかにはたしかにある。

 自分以外の誰かを好きになる、自分のこと以上に誰かのことを思ってしまうという感情は、基本的に自分本位な生き物である私たち人間にとっては、ある意味ひとつの奇跡であると言っても過言ではない。その異常な心の動きについて、「それが愛だ」と定義づけるのは簡単だ。そう、たしかにそれが愛であり、自分は他ならぬその人を愛している、と自分を納得させてしまえば、私たちはそれで次の行動をとることができる。たとえ、その結果が悲惨極まりない破局であったとしても、その思いはいつかは思い出へと変わっていくのだろう。だが、同時に私たちは、こんなふうにも考える。私たちがあたり前のような口にしている「愛」という言葉は、はたしてどのようなものなのだろうか、と。

 目に見えず、たしかな形をもたない、さまざまな人たちのさまざまな解釈を許容する余地のある、いかにもあやふやな概念について、長く信じていくことは、簡単なようでいて難しい。それは言ってみれば、未開の地の住人に神の信仰を説くようなものだ。人が人に恋をするとき、その感情が真実愛情であるかどうか、そんな論理を働かせるようなことはない。恋人たちはしかるべきところへと行き着くことになるだけだ。だが、本書に登場する語り手の「僕」は、不幸なことにそんなふうにはならなかった。なぜなら、彼のかつての恋人は不慮の死によって、永遠に彼との関係を絶たれてしまうからである。

 僕は水穂を愛していた。愛しているつもりだった。でも、それは違ったのだろう。水穂が死んでも、僕は致命的に傷つくことはなかった。――(中略)――では、僕が水穂に向けていた感情は何だったのか。

 愛に始まりがあって、それが発展していき、そしていつしか終わりを迎える。それが人の抱く恋愛のひとつのサイクルであるとすれば、かつての一人称の「僕」が水穂に向けていた愛は、そのサイクルの途中で強制的に切り離されてしまった形になる。「side-A」と「side-B」の二冊でひとつの物語をつないでいく本書は、そんな行き場をなくしてしまった「僕」の愛に、何らかの決着をつけるというのが主要なテーマとなっているのだが、「side-A」に関しては、おもに自身がかつて抱いていたはずの恋愛感情が、はたして本物であったのかどうかという点に焦点をあてているのに対して、「side-B」の場合は、彼が「side-A」のなかで出会い、最終的にはお互いに愛をたしかめあった日比野かすみの愛が、はたして本物であったのかどうかという点に焦点を向けている。

 本書における「side-A」と「side-B」は、時間的にはひとつづきのものではあるが、じっさいにはその表記どおり、人間の愛に対するふたつの側面を書いたものであり、そういう意味ではそれぞれ呼応するものをもっている。そしてひとつ共通するのは、いずれの場合も語り手の「僕」のもっていた愛が、その対象となる異性を理不尽な形で失うことで、同時にその確かささえも限りなく曖昧なものとなってしまうという点である。

 時計を五分遅らせるのが癖だった水穂――そこには彼女なりの意味があり、「僕」もまたその考えに少なからず賛同するものがあった。だが、水穂は六年前に交通事故で死に、ただ意味を失った五分遅れの世界のなかに、同じように意味を失った「僕」が取り残された。小さな広告代理店ではたらく「僕」は、個人的な感情や人と人との関係にはまったく無頓着な、しかしそれゆえに業績という点では優秀でシステマティックな人間として描かれており、じっさいに「side-B」における「僕」は、客入りの悪い飲食店のコンサルタントという新たな仕事において意想外な実力を発揮することになるのだが、その根底にあるのは、自身の抱く感情に対する底知れない疑いの念だと言える。

 誰かを愛するという行為は、愛する対象がいなければ基本的には成立することはない。成立しないというよりも、自身の愛情がたしかに愛情であるとたしかめる方法がない、と言ったほうがいいかもしれない。誰かを愛すると言えば聞こえはいいが、それは同時にこのうえない自己満足の産物であり、またともすると、身勝手な行為へと成り下がる可能性を常に秘めている。個人的な感情よりも、あくまで実利の面を優先しようとするある意味クールな「僕」の態度は、ひとえに過去に断ち切られた自身の愛情について――堂々巡りを繰り返したあげく自家中毒に陥りそうだった自身の感情について、判断停止を強いた結果でもある。そして、そんな彼だからこそ、一卵性双生児の片割れである日比野かすみの奇妙なアプローチについても、冷静でありえた。

「それから諦めたんです」とかすみさんは言った。「遺伝子に逆らうのは無理なんだって。自分のやりたいようにやれば、相手も同じことをしてる。でも、無理に自分らしくないことをしてみたって、しょうがないでしょう?」

 彼女はなぜ「僕」に近づいてきたのか。双子の妹であるゆかりの婚約が、その行動とどのような因果関係にあるのか――そういう面からとらえてみると、本書にはミステリーとしての要素も多分にふくまれており、それが本書の特長のひとつであることは間違いない。だが、ひとつ重要なのは、本書で提示される謎には、明確な答えなど存在しないということである。人はまず愛に芽生えるからこそその人との付き合いをはじめるのか、あるいはその人との付き合いのなかから愛情が育まれていくのか、その設問に唯一正しい答えが存在するわけではないのと同じことだ。

 いっぽうで誰かを愛するという激しい感情に倦み疲れた女がいて、いっぽうでその感情の正当性について、けっして答えの出ない問いをもちつづけることに倦み疲れた男がいる。本書のなかで展開する恋愛は、そんな男女がお互いをつうじて、心静かに自身の心に向き合うような恋愛である。それゆえに、水穂の死によってはじまった「僕」の遍歴は、最後には再び水穂のもとへと戻ってくる運命にある。そしてそれは、日比野かすみにしても同様である。時間的にはひとつづきでありながら、合わせ鏡のようにお互いが対比の形を成している本書をぜひ読んでみてほしい。(2007.04.16)

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