【晶文社】
『すぐそこの遠い場所』

クラフト・エヴィング商會著 



 今でない時、ここでない場所――思えば私も小さい頃は、自分の空想のなかにのみ存在する架空の世界にあこがれ、そしてできることなら、そんな架空世界を自分の手で生み出してみたい、という欲求に駆られたことのある者のひとりである。あるいは私の読書好き、物語好きの原点は、こうした子どもの頃のあこがれにこそあるのかもしれない、と思うことさえある。今でも、たとえば今まで見たことのない、架空の世界の地図なんかを見かけると、まるでそこに素晴らしい冒険の物語が隠されているのではないか、とわくわくする気持ちをいだいてしまう。

 だが、じっさいにそうした架空の世界を、たんに想像するだけのレベルから、小説なりゲームなりの形でつくりあげようとすると、そこにはたいへんな労力が必要となってくる。仮にも、ひとつの世界をまるまるこしらえようというのである。地形や気候、国やその歴史、あるいは動植物の生態や、そこに暮らす人々の生活習慣などなど、決めなければならない事柄は、それこそ無限に溢れ出てきりがない、というのが現状である。というよりも、ひとつの完璧な世界を築くことなど、たとえどのような表現形式をもちいても不可能だろう。厳密なものをつくろうとすればするほどその完成は遠ざかり、架空の世界はけっきょくのところ人々の想像のなかにとどまってしまう。そしてそのうち忘れ去られていく――もっとも、だからこその架空世界なのかもしれないのだが……。

 トールキンの『指輪物語』にしろ、小野不由美の「十二国記」シリーズにしろ、あるいは向山貴彦の『童話物語』にしろ、今も昔もさまざまな人たちがさまざまな架空世界を築きあげ、そこにさまざまな物語を描いてきた。だが、そこに書かれた物語は、あくまで架空世界を表現するほんの一部でしかない。本書『すぐそこの遠い場所』もまた、「事典」という形をとってはいるものの、「アゾット」と呼ばれる不思議な世界のことを記した本であるが、本書の目的はそのなかで展開される物語を描くことではなく、むしろ私たちが小さい頃、誰もが一度は思い描きながらも時とともに忘れてしまった、それぞれの架空の世界を立ち上がらせる、という点にこそある。

「そう……この事典はね、見るたびに中身が変わってゆくのだよ」

 現クラフト・エヴィング商會の主人の祖父、吉田傳次郎が遺した、世界にたった一冊しかないと言われている「アゾット事典」――小さい頃、読んでみたいと思いながら、いつももったいぶって見せてくれなかったその謎めいた本は、祖父が亡くなってずいぶん経った現在、主人の手の中にあった。「アゾット」という、ここからずっと遠くにある不思議な世界の住人が、自らその世界のことを記したとされているその事典を、現主人が翻訳したものが本書、ということになっているのだが、いざ本書を読みすすめてみると、「事典」と称しておきながら、じつは紹介されているさまざまな項目について、何ひとつ正確なことを定義していない、という事実に気づくことになる。

 たとえば、「アゾット」という名前の由来については一応記されているものの、では誰がいつ名づけたのか、という点については「あきらかに神ではない何者かが、あくびの出る日曜日の午後に、ABCビスケットか何かを、ぽりぽり食べながら思いついたものに違いないのだ」という、なんとも曖昧とした答えしか載っていない。また、「アゾット」は21のエリアに区切られているというが、その21という、なんとも中途半端な数字にどんな意味があり、また誰が何のために区分けを行なったのかについては、いろいろな通説があるもののはっきりしないばかりか、どうやら「22番目のエリア」が存在するらしい、という未確定情報が付け加えられている始末。そもそも「アゾット」という世界がどんな形をしているのか――大陸や海の配置、あるいは方角を示す地図が存在しない。というより、地図を書くという概念そのものが存在しない。まるで、雲をつかむような世界、それが「アゾット」という世界を構成する要素なのだ。

 雲母でできていて、ページをめくるそばから粉となって消えていく「雲母印書房」の本。人々が忘れてしまったさまざまな事象を保管していながら、そもそも自身のつくられた由来を忘れてしまった「忘却事象閲覧塔」、逸品であるにもかかわらず、何かの理由でこの世から消えてしまった「星屑膏薬」、この世の真実を探求していながら、いつのまにかたったひとつの真実に無数の解釈を加えることを売りにするようになった「哲学サーカス団」、巨大な怪物の剥製を完成させたものの、そのあまりの大きさに搬出することができないまま閉鎖され、人々から忘れ去られてしまった「路地裏の剥製工場」――本書のなかに出てくるものは、どれもいったいいつから、何のために存在するのか、あるいはなぜ人々から忘れられていったのかわからなくなった、奇妙奇天烈なものばかりである。それは、何かを定義するという、事典がもつ存在意義からはもっともかけ離れたものばかりであることを考えれば、そもそも本書の――「アゾット事典」なるものの存在そのものが、言ってみれば『ないもの、あります』に出てくるジョークグッズのようなものである。だが、それでもなお私たちが、本書が示す不思議な世界に惹かれるものがあるとすれば、それは、もしかしたら私たちがずっと昔になくしてしまったもの、あるいは忘れてしまったものが、「アゾット」にはあるのではないか、という淡い期待感なのかもしれない。

 そもそもこの世界の人たちは、ひどくもの忘れの激しい人ばかりのようだ。だから、アゾットの第5エリア「イプシロン」では、さまざまな事柄に対するマニュアルが書かれる活字文化の中心地でありながら、すでにそのマニュアルの4割が、誰の記憶からも忘れ去られてしまったものに関するもので、何の役にも立たない、というおかしな状況に陥っている。そして、どこからともなくアゾットにやってきて、21のエリアを巡礼し、どこかへと去っていってしまう「過客」なる人たちも、この世界に来る以前のことはほとんど忘れてしまっているという。まるで、ついさっきまでみていたはずなのに、目を醒ますとどうしても思い出せなくなっている夢の世界のように――

 さて、そもそも「アゾット」なる架空世界を事典で定義すること自体がどこかとりとめのない作業であるのと同じように、本書を書評しようとする私の言葉も、だんだん雲をつかむような作業となりつつあるようだ。書けば書くほど遠ざかってしまう、すぐそばにあるようで、でもどこか遠くにあるような世界、「アゾット」――あとは、読者がじっさいに手にしてみて、自分だけの「アゾット」を見つけていってほしい。(2004.06.10)

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