【新潮社】
『リリアン』

エイミー・ブルーム著/小竹由美子訳 



 人が個人としてこの世で生きていくことの意味を突きつめて考えていったときに、けっきょくのところ辿りつく結論として、より高次な何か、たとえば神などといった存在にその意味を預けてしまうか、あるいは生きる意味などそもそも存在しないと放棄してしまうかのいずれかになってくる。だが、いずれの結論を信じる、あるいは受け入れるにしろ、私たちはとりあえずの今を生きていくしかないし、また生きていけるものだ。朝起きたら何をするのか、次にやるべきことは何か、晩御飯に何を食べるのか――たとえそれが、どれほどささやかでくだらないことであったとしても、とりあえずの目的さえ決まっていれば、それで人は動くことができるし、少なくともやるべきことをやっているあいだは、生きることの意味などという事柄に心を煩わされずに済む。

 それが人の弱さであるのか、あるいは強さであるのかはともかくとして、ただ生きていくというだけでは人生に張り合いがないと感じてしまう私たちの心理は、じつのところ相当にやっかいな代物だ。生きることの意味を求めずにはいられない心理の背後には、未知のものへの恐怖心がある。わけのわからないものや予測できないことに対して、人はこのうえなく無力であるが、それは自分が何をすべきなのかが見えてこないからに他ならない。逆を言えば、何をすべきなのかがはっきりしてさえいれば、人は行動を起こすことができる。それが正しいことなのか、間違っているのかといった判断は、さほど重要なことではない。とりあえずやるべきことがある、ということにこそ意味があると言える。

「何がバカなのよ? やらなきゃならないとなったら、できるものよ」

 本書『リリアン』の舞台となっているのは、1920年代のアメリカはニューヨーク。主人公のリリアンは、ゴールドフェイドン劇場の前で大勢の女性たちのひとりとして列に並んでいる。お針子としての仕事を求める女性たちであるが、そんななかでリリアンは、他人を出し抜く図太さととっさの機転によって、劇場のオーナーであるルーベンの目にとまり、お針子の仕事を勝ちとっただけでなく、しばらくするとルーベン・バースタインの愛人という地位さえも手にしてしまう。それは、いかにもアメリカらしいサクセスストーリーのひとつではあるが、リリアンがアメリカにやってきた経緯が見えてくるにつれ、その成功が彼女にとって本当に望んだものであるのかどうか、いや、そもそもリリアンがどういう思いでアメリカという地にいるのかが、まるで霞がかかっているかのようにはっきりとしないことに気づくことになる。

 ロシア系ユダヤ人として生まれ育ったリリアンには、両親と夫を惨殺されるという過去があった。しかも、窓から外に逃がしたはずの最愛の娘ソフィーも、けっきょくは行方知れずとなってしまう。なぜそのような悲劇が起こったのか、その理由について本書のなかでははっきりと書かれてはいないし、彼女の記憶をめぐるかぎりにおいて、その襲撃がある種の必然であるかのように行なわれた印象さえ受けるのだが、リリアンにとってこのうえなく理不尽な、警察に事件としてさえ取り上げられることのなかった出来事、という印象こそが、過去において何度も繰り返されてきたユダヤ人迫害の真髄であるとすれば、翻訳とはいえ、その感情過多に陥らない表現レベルには舌を巻く思いである。それはリリアンにとって「ポグロム」などという名前のつけようもない、それゆえにけっして片づけることのできない壮絶な過去として、今もなお彼女を悪夢に誘うたぐいのものなのだ。

 従姉のアパートにやっかいになりながら、ルーベンの寵愛を受けつつ、その息子であり、劇場のアイドルでもあるマイヤーとも愛人関係を結ぶリリアンの生き様、劇作家のヤーコヴのもとで英語を身につけようとするその生き様は、貪欲そのものである。だが、リリアンの過去をそれとなく察している読者は、その貪欲さが行き先を見出すことができないままに、ただ空回りしているという印象を強く受ける。だが、そのエネルギーがリリアンをどこまでも突き動かす原動力となる日がやってくる。それは、同じようにロシアから渡ってきた従妹からもたらされた。ソフィーは生きている、近所に住んでいたピンスキー夫婦に拾われ、ユダヤ人にとっての楽園と言われるティホナイアに向かったという話――娘は川に溺れて死んだものと思い込んでいたリリアンにとって、それはまさしく生きる目的そのものとなるに充分なものだった。

 ソフィーの名前は、乾いた木にマッチを近づけるようなものだ。今やリリアンの体を氷がどっと流れ、シーツへほとばしり出る。炎の木々が凍った野原一面に倒れる。輝くオレンジ色、先端は青く、消すことはできない。

 こうして、リリアンの無謀としか言いようのない旅がはじまる。娘を迎えにいく――ただそれだけを希望として、シカゴからシアトルへ、さらにアラスカへ渡り、ベーリング海峡を越えてシベリアの凍てつく大地を突き進むというその計画は、バースタイン親子にとっては自殺行為に等しいものとして一蹴される。それどころか、従妹がリリアンの今の場所を横取りするための嘘だとさえ言い切るが、彼女にとって何が真実なのかということは、さほど重要なことではない。重要なのは、それがリリアンにとっての生きる目的として、すべてをなげうってでも行動に移す価値のあるものとして認識されたということである。

 提示された情報は、その信憑性がきわめてあいまいなものでしかない。本当に娘が生きているのか、生きているとして、当時三歳だったソフィーが自分のことを覚えているのか、そして仮に再会できたとして、それからどうするのか――あるときは列車の貨物車両に二十時間以上も押し込められ、あるときは有り金のすべてを奪われ、あるときは不審者として収容所に送られ、しかしそれでもリリアンは旅をやめようとはしない。女の身ひとつでの旅の過程は、けっして楽なものではない。それが伝わってくるがゆえに、私たち読者は思わずにはいられない。いったい、何が彼女をそこまで駆り立てるのか、と。

 本書の後半部分はある種のロードノベルの体裁をとっており、まるで「母を訪ねて三千里」の逆バージョンを思わせるが、リリアンにとってその遍歴は、結果がどうかというよりも、むしろ大切なものであったものすべてを奪われた彼女の、けっして片づくことのない心に何らかの区切りをつけるための意味合いが強い。そしてその過程で出会っては別れることになる人々もまた、人生の不合理に翻弄されながらも、目指すべき目的のため、あるいは愛する人のために、ひたすら貪欲に、したたかに生き抜いていこうとする。そうした人たちの人生と、リリアンの人生とが旅という線上で一時交わり、ひとつの壮大で、そしてこのうえなく奇妙な物語が編まれていく。そこに見えてくるのは、生きていくことの力強さだ。どれだけ踏みつけられ、傷ついても、なお歩いていくことができる人間の強さ――それはそのまま、体じゅう傷だらけになってもなお旅をやめないリリアンの姿と重なっていく。まるで、旅をすることが生きることであり、また救いでもあるかのように。

 人はどのような環境にもとに置かれても、それなりに適応し、慣れていく。そのときはどんなにつらく悲しいことだと思っていた悲劇も、いずれは何らかの形をもって自身の一部となっていく。人が人として生きていくことは、けっして楽なことではない。だが、それでも私たちは今、この世界を生きている。それは、私たちが思っている以上に奇跡的なことなのではないか、と思わせるものが、本書のなかにはたしかにある。(2010.03.28)

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