【文藝春秋】
『AV女優』

永沢光雄著 



 たとえば、好きな女の子がいるとする。そして自分がまだうぶなティーンエイジャーであるとする。いや、こと恋愛にかんしては永遠の純情少年であることを自負する私ではあるが、ともあれ、少しでも仲良くなりたい、今より親しい関係になりたい、そしてあわよくばあーんなことやこーんなことまでやってみたい、と思いながらも、そのきっかけすらつかめずに悶々としていると、いつのまにかオナニーするときも、その子のことを思い浮かべていたりすることがある。もちろん、私も男である以上、女の子が好きになることと、自身の性欲の対象として見てしまうこととの結びつきは、ある意味避けられないものがあるのだが、それでもなお、性欲処理のはけ口として好きな女の子をオカズにしてしまったことに対して、多かれ少なかれ罪悪感を憶えてしまうのも事実だったりする。大好きな女の子を汚してしまったかのような、そんな罪悪感である。

 本書『AV女優』は、アダルト雑誌に連載されていたAV女優へのインタビュー記事をまとめたものである。言うまでもなく、「AV」とはアダルトビデオのこと。つまり、私を含む世の男どもが、言ってみれば性欲のはけ口として利用してきた女性たちに焦点をあてたインタビュー集であるのだが、本書を読み終えて、私はあらためて、彼女たちもまたひとりの人間であることを思い知らされている自分に気づかされた。

 そんなのあたり前だと言われてしまえばそれまでなのだが、少なくとも私自身については、アダルトビデオを観賞するときに、そこに出演している女優や男優の個性というものについて、あまり深く考えるようなことはなかった。もちろん、私にも女の子の好みはある。むしろ、そうした好みについてはけっこううるさいほうだという自覚さえあるのだが、AVにしろ官能小説にしろ、重要なのはむしろシチュエーションだというのが私の持論である。ここで私の官能論について語るのは本筋から離れてしまうので割愛するが、ようするに、AV女優として働いている以上、その容貌が平均より上であるのはあたり前であり、それゆえにAVのシチュエーションさえ満足できるものであれば、そこに出演しているAV女優が誰であっても、大きな意味をもつことはない、ということである。

 本書に登場する女の子は、全部で42人。ひとつひとつのインタビュー記事はけっして長いものではないが、この数はけっして少ないものではない。だが、ともすると「AV女優」という記号でひとくくりにされてしまいそうな彼女たちには、まぎれもない彼女自身を形づくる過去があり、個性があり、そしてそこから導き出される人生観があり、処世術がある。その多彩で波乱万丈な――世間一般の基準からすればけっして幸福とは言えそうもない生き方は、まったくもって目を見張るものがあるのだが、それ以上に驚くべきなのは、そんな彼女たちの個性を引き出してしまう著者のあり方である。

 インタビュー集、と書くには書いたが、そこには決まった形式というものがない。まるで小説の出だしであるかのように書かれることもあれば、ごく普通にインタビュアーとAV女優との会話がつづくこともある。ときにはインタビューであるにもかかわらず、AV女優よりも著者自身の気持ちのほうが表に出てきてしまうこともあり、ときには「長くつ下のピッピ」の主人公をAV女優の個性と結びつけてしまうこともある。もちろん、インタビューである以上、質問する内容についてある程度は決まったものがあるのだろうが、けっして形式にとらわれることのないそのインタビュー記事に共通するのは、誤解を怖れずに言うなら、ひとりの人間としてのAV女優に対する「愛」だろう。
 そこにはまぎれもない、一対一の人間としてのつながりがあり、対等な立場でありたいという矜持がある。それは、本書の最後に著者自身へのインタビューが「解説」として、まるで自身もまた「AV女優」のひとりであるかのように差し挟まれていることからもうかがえる。

「サブカルチャー」という言葉がある。日本ではとかく漫画やアニメ、特撮といったジャンルのコアな情報を扱うものとしてとらえられがちではあるが、本来はメインカルチャー、つまり社会において主流であり、その価値を認められている文化や思想の対極に位置するものである。本書に登場するAV女優たちの語る過去には、いずれも今の社会制度や道徳、倫理観といったものからどうしようもなく外れずにはいられない強烈さがにじみ出ているのがわかるのだが、それらの個性は、言ってみれば彼女たちを取り巻く環境が、彼女という個を押しつぶそうとした結果として、突出せざるを得なかった個性でもある。

 本人は、「ただ日本を脱出したかった」と言うが、日本という国が作り出してしまった競争社会を脱出したかったのだろう。――(中略)――南条レイはそんな勝敗にこだわってしまう自分をどうにかしたくて、競争を放棄して外国に渡ったのではないか。言葉も通じない外国で、競争とは無関係に、ただ「生きる」ということをしてみたかったのだろう。

 彼女たちは多かれ少なかれ、社会環境という大きな流れに対して、たったひとりで向き合わなければならなかった過去をもち、その苛烈な経験から、自分がたしかな自分であるために本当に必要なものだけを、最低限守ろうと必死になって生きてきた。そして、そんな彼女たちの姿を、私たちはしばしば目をそむけるようにして生きていることに気づかされる。この世はけっして自由でもなければ平等でもなく、誰かの平和や幸福の陰には、かならず別の誰かの不幸がある――ともすると、私たちが目につかないように、必死になってその存在を隠そうとする、ありのままの「サブカルチャー」の姿が、本書のなかにはたしかに息づいている。

 男という生き物はなかなか現金なもので――というより、所詮は下半身で生きているようなところがあるもので、おそらく本書を読んだ後も、アダルトビデオを観るときは、AV女優の個性など忘れて、おのれの性欲処理のはけ口として扱ってしまうことになるだろう。だが、同時に私は、彼女たちが、たとえば私が好きだった女の子の代わりに汚れ役を引き受けてくれたのだという事実をけっして忘れることはないだろう。そういう意味で、本書は私にとっての福音だったと断じることができる。(2006.12.06)

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