【文藝春秋社】
『自動起床装置』

辺見庸著 
第105回芥川賞受賞作 



 あなたは寝起きはいいほうだろうか、それともあまりよくないほうだろうか。朝起きて、仕事をしたり勉強したり遊んだりして一日を過ごし、最後には眠りにつく――人によっては夜起きて朝眠る人もいるだろうが、少なくとも人間が持っている時間は、起きている時間と眠っている時間の二種類しかなく、一日に八時間の睡眠をとるとすれば、じつに人の一生の三分の一は眠っている、という計算になる。この膨大な時間に対してどのよう感じるかは人によってそれぞれ違うのだろうが、太古の昔から人の見た夢で吉凶を占ったり、現代においても夢判断なるものが心理学の分野でも注目されていることを考えると、私たちが健康である限り、あたりまえのようにむさぼっている眠りの時間も、間違いなく人生の一部なのだと言うべきなのかもしれない。

 本書『自動起床装置』に登場する水田満という青年は、一風変わったアルバイトをしている。「起こし屋」と呼ばれる彼の仕事は、宿泊センターに宿泊しているお客を、指定された時間どおりに起床させること――けっして大きな音を立てることもなく、またけっして寝ている人の身体に触ることもなく、自分の魂からしぼりだすような、しかしあくまで囁くような呼びかけで人を起こしてしまう「起こし名人」小野寺聡とともに、満はこの深夜のアルバイトをつうじて、他人の睡眠時間――起きている時とはまったく違った、無防備な一面をのぞかせる夢の時間を体験することになる。

 私はけっこう寝るのが好きだ。快い睡眠のために布団だけは奮発して高級品を使っている(さすがにウォーターベッドというわけにはいかないが)。だが、自分が眠っている姿というのは、人にその様子を聞かされてもなかなかピンと来ないものがある。もちろん、本人は眠っているのだからあたり前なのだが、少なくとも著者は、眠りの世界に入った人間の姿から、植物を連想するようだ。起きている時と比べてほとんど動きをなくしてしまった身体は、しかしその内部ではさかんに新陳代謝を繰り返している――眠るという行為は、あるいは動物が植物に近づくための儀式、しいては人間が自然の一部に近づくための儀式めいた何かがあるのかもしれない。

 ある日、会社が「自動起床装置」なる機械を導入して、それまで人がやっていた「起こし」の自動化を計画していることを知ったときに、聡が予想以上の反発を示したのは、何も職を失うことを恐れていたからではないのだ。
「自動起床装置」の噂が持ちあがってからしばらく経った、クリスマスイヴの夜、聡は恋人のみほこを連れて宿直室にやって来る。思いがけず開かれることになったささやかなクリスマスパーティーで、聡はふとこんなことを話す。

「起きるというのは、この酒のもとになっているピタンガの木の実とか、レンブの果実とかが、木の下で寝ているぼくらのおなかにポンと落ちてくるとか、モチノキの枝に小鳥がいっぱい飛んできて、ピーチクやるとかして生じる感覚だと思うんだ。――(中略)――大脳皮質が、皺のどこかでかすかに覚えているんじゃないかな、幾世代も幾世代も前の目覚めの感覚をさ……」

 科学が発達して、人々の生活が豊かになって、でもその一方で合理化が進んで、次々と不必要なものとして消えていってしまうもの――私たちは、今の生活を手に入れるためにいったいどれだけのものを切り捨ててきたのだろう。そして、いつから私たちは、目覚し時計による暴力的な起こされ方に慣れてしまったのだろう、とふと思いを巡らせる。

 辺見庸の著書としては、最近では『もの食う人びと』(角川文庫)というエッセイが有名だが、著者は寝ることや食べることといった、人間が最低限生きていくうえで絶対に欠かせない行為の中にある、一種の人間臭さを大切にしているように思える。あるいは、こんな風に考えているのかもしれない。寝ることや食べることまで合理化してしまったら、私たちは本当に人間ではなくなってしまうのだ、と。

 上述したように、私は寝具に関してはけっこう金をかけている。だが、本当に心地よい寝覚めというのは、高級寝具ではなく、また女の子の膝枕でもなく、大きく枝葉を茂らせた樹木がもたらしてくれる木陰のなかにこそあるのかもしれない(1999.11.08)

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