【新潮社】
『直筆商の哀しみ』

ゼイディー・スミス著/小林由美子訳 



 ある商品について、その価値を決定するのは次のふたつの要素だと言われている。ひとつは、その商品の現実的な物量、そしてもうひとつは、その商品に対する消費者の「欲しい」という気持ち。つまり、数が少なくて、かつ誰もが欲しいと思う商品であれば、必然的にその価値は高騰することになるのだが、問題なのは二番目の「欲しい」という要素だ。

 たとえば、私は昔切手を収集していたことがあるのだが、とある切手のカタログを見たときに、たかだか一枚の古い紙切れに何十万という値段がつけられているという事実に驚いた覚えがある。たしかにその切手は、古い時代に発行された、そもそも発行部数も少なく、そういう意味では希少価値のあるものなのだろうが、もともとはハガキを郵送するための手形にすぎないものが、なぜここまで高い価値をもつようになったのか、という点を考えたとき、ごく一部の人たちが、その古い切手に多大な価値観を見出している、という構図が見えてくる。その一部の切手コレクターにとって、その古い切手は「欲しい」という気持ちをものすごくかき立てる代物なのだ。

 切手を集めていた頃の自分自身を振り返ったとき、そこにあったのは「誰も持っていないような切手を手に入れて、周りの人たちに自慢したい」という欲求である。これは、切手に限らずコレクターたちが多かれ少なかれ持っている欲求だと言える。人が持っていないものを自分が持っている、という事実は、仮にそれがコレクターたちのあいだという、ごく限られた世界のなかだけのものであったとしても、その人のステータスを上昇させ、尊敬を集める要素として作用する。言ってみれば、何かを収集するというのは、知識や名声や運動能力といった人間的な価値観をモノに置き換える行為である。

「ぼくは収集家じゃありません」アレックス=リはゆっくり大きな声で答える。「売買してるんです。べつに個人的な趣味とかじゃなくてね。ぼくはむしろ、商売だと思いたいのですが」

 本書『直筆商の哀しみ』に登場するアレックス=リ・タンデムは、イギリスに住む二十七歳の直筆商である。直筆商(オートグラフマン)というのは、有名人のサインや文書を商品として扱っている商売人のこと。彼がこの世界をはじめてまのあたりにしたのは、彼が十二歳の頃。父親に連れられて友人ふたりとともにレスリングの試合を見に行ったさい、その席上で知り合ったジョーゼフという少年が有名人の直筆著名収集家だったことがきっかけだ。以来、アレックスたち四人の子どもたちの友情は今もなおつづいているが、ほかの三人がそれぞれ保険会社の社員やビデオレンタル店の経営者、あるいはユダヤ教の聖職者(ラビ)として働いているなか、アレックスの直筆著名収集は売買への真剣さが増し、ついにそれを仕事にするにいたっている。言ってみれば、趣味が実益を兼ねるという、ある意味理想的な仕事についていると言えるアレックスであるが、彼の直筆商に対するビジネスライクな態度には、どこか不安定な部分が見え隠れしている。

 酒と女にだらしなく、またしょっちゅうクスリを決めているアレックスの生活は、しばしば支離滅裂なものとして展開していく。何日も記憶がなかったり、知らないうちに自分の車をスクラップにして、恋人であるエスターに怪我を負わせたりと、社会人として、男としてどうしようもなく不安定なところのあるアレックスの存在は、大人になりきれていない少年、というひとつの象徴だ。それは、かつてレスリングを見に行った先で父親のリ=ジンが急死してしまったことも関係しているが、その影響は彼の職業でもある直筆商のほうにも表われている。本書を読みすすめていくとわかってくるのだが、彼は映画女優であるキティー・アレクサンダーのファンで、彼女の数少ない直筆サインを手に入れようと、十三年ものあいだ彼女にファンレターを送り続けているという執念ぶりである。

 物語は、そんなある種自堕落な生活をつづけるアレックスのもとに舞い込んだ、キティーからの直筆サインが中心となって展開していく。コレクターのあいだでは、おそらく数千ドルの価値になるであろう、往年の映画女優のサイン――はたして、このサインは本物なのか、そしてどのような経緯をへて彼のもとに届けられることになったのか? 多用される「国際的に通用するジェスチャー」をはじめ、こまかいシーンでのジョークやユーモアに溢れた本書であるが、物語の主となっているのは、アレックスのなかにあるコレクターとしての部分、すなわち子どものように純粋な部分と、直筆商としての部分、つまりあくまでビジネスライクに金を追い、名声にどん欲であろうとする大人の部分を揺れ動いていく、彼自身の心の作用だと言える。

 じっさい、アレックスはそのサインの真偽をなかなかたしかめようとせずに、そのせいで物語は表面上、とくに大きな進展もないまま続いていく。そのハガキには、書き手の住所も書かれているのだから、極端な話、その住所に直接乗り込んでいくこともできるはずなのだ。だが、彼が選択したのは、近々ニューヨークでおこなわれるオートグラフィカーナ・フェアに行くついでに、その住所を尋ねてみる、というもので、そのせいでエスカーのペースメーカー取り換えのための手術には立ち会えなくなり、彼女との関係は悪化の一方であるし、またラビからは、近々やってくる父親の命日のための儀式(カディッシュ)の準備を迫られており、むしろいろいろとややこしい立場にアレックスは立たされることになるのだ。

 社会的に通用する「何者か」になろうとして、しかしそのいずれにもなりえない者たちのそこはかとない哀しみは、著者の前作『ホワイト・ティース』にもあった要素であるが、アレックス自身の中国系ユダヤ人という要素のなかで、とくにユダヤ人的な要素が物語のなかで色濃く反映されている。彼の父親リ=ジンは、アレックスにはあまりユダヤ的なものにかかわらない生き方をしてほしいと願っていたが、その後の彼は、あらゆるものについてユダヤ的なものと非ユダヤ的なものとを分類するという作業にとりつかれてしまっている。それは、直筆商としての立場からすれば、まったく何の価値もない行為にすぎない。だが、自分を直筆商だとうそぶき、収集よりも売買を主としているアレックスのなかには、けっして商売では割り切れないものが常に渦巻いている。本書は、そんなアレックスがけっして揺れ動くことのないたしかな「何か」を求めて彷徨う物語だと言うことができるし、またアレックス=リ・タンデムのカバラの、けっして埋まらない最後の枝を埋めるための物語でもある。

 ただの紙切れ一枚、ただのサインひとつにとてつもない高値がつくこともあるのが、直筆商をはじめとするコレクターたちの世界であるとすれば、当然のことながらそこにビジネスとしての価値観を見出す者たちも出てくる。何かを集めることの純粋な喜びさえ、時とともに自己顕示欲へと変換されることのあるコレクターたちの世界は、しかし逆にいえば、けっしてきれい事だけではない、私たちの住むこの世界そのものでもある。そんな世界のなかで私たちにできるのは、せいぜい国際的に通用するジェスチャーを用いてそのすべてを受け入れることくらいなのかもしれない。そしてそれは、私たちが思うほど絶望的なことではないのかもしれない――そんなふうに思わせてしまうものが、本書の中にはたしかにある。(2007.08.02)

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