【白水社】
『アウステルリッツ』

W.G.ゼーバルト著/鈴木仁子訳 



 私たちが生きるこの世界に不変のものなど何ひとつない――それがひとつの真実であることはまったく異論のないところであるが、それでもなお、私たちはときとして、時の流れという必然を超越してしまったかのように感じる瞬間に立ち会うことがある。

 たとえば、夜空にまたたく星々は太古の昔から変わることなく私たちの頭上を照らしてきたであろうし、広大な山や海といった自然物もまた、私たちの生まれる前からそこにあり、また私たちが死んだ後もそこにありつづけるだろう。雄大な自然の姿は時として私たちに深い感銘や、あるいは恐怖といった感情をかきたてる。だが、それら自然物はたしかにある種の悠久的な存在であるかもしれないが、同時にきわめて無個性な存在でもあり、同じように何百年という時を経て、なお現存する古い建築物をまのあたりにしたときの感情と一緒くたにすることはできない。

 大自然のサイクルからすれば、きわめて短い生しか持ち合わせない人間の手によって生み出された人工物、それも、そこに人が生活することを前提とした建築物には、どこか私たち人間と同じような個性の片鱗がうかがえることがある。まるで、そこに生きる人々の個性を記憶していくかのような、という比喩は、たとえば人の住まなくなった家が、まさにそれゆえに寂れ、崩れていってしまうことを考えると、けっして大げさなものではない。レーナ・クルーンの短編『毎日が博物館』にもあるように、「家は私たちのことを忘れていない」のである。

 自分はいったい何者で、どこから来て、どこへ向かうのか、という命題は、およそ文学を志す者にとっては避けることのできないテーマのひとつであるが、今回紹介する本書『アウステルリッツ』を読み終え、さらに読み返してみたときに、本書に登場するアウステルリッツという人物が、建築物に並々ならぬ興味をもち、また建築に関する博識ぶりを一人称の主体である「私」に長々と語ってみせる、という形で物語をはじめていった本当の理由について、あらためて考えずにはいられなくなった。

 本書の内容について語るのは、ある意味非常に容易なことだ。後にドイツ出身だとわかる「私」なる人物が、ベルギーを旅行中にアントワープ中央駅の待合室で、熱心にメモやスケッチをとっているアウステルリッツという名の男と出会い、彼の話を聞く、というものである。そのさいは前述のとおり、彼の建築に関する薀蓄がとめどもなく語られるのみで、興味深くはあるものの物語としては何かがはじまるような気配はないままに、ふたりはいったんは別れることになるが、それから二十年後のイギリスで、ふたりは思いがけず再会をはたすことになる。そこで、まるで二十年前の話のつづきを語るかのようにアウステルリッツは「私」に話しはじめるのだが、それは、彼の失われた出自に関する驚くべき真実であった……。

 はたして、このアウステルリッツなる、けっしてありふれた名前とは言えない男性は何者なのか、そしてなぜ他ならぬ「私」に、自分の過去のことを語ることにしたのか――本書は基本的に彼の語りによって進められていくのだが、章どころか段落ひとつつけることなく続いていくアウステルリッツの語りは、まさにその切れ目なくつながっていく文章ゆえに無秩序であり、しばしば読者は自分が今読んでいる部分がはたして現在なのか、あるいはアウステルリッツが語る過去なのか、あるいはその語りのなかに登場する別の人物の独白なのか、といった境目がしだいに曖昧になっていくという現象に見舞われる。そして、文章のいたるところに挿入される「〜とアウステルリッツは語った」という文句によって、私たち読者ははじめて本書の時空から「今」という時間へと立ち返ることになるのだ。

 もしあのころ、アウステルリッツにはときとして始まりも終わりもない刹那がおとずれ、またその逆にそれまでの人生が時間の長さをもたぬ空白の点としか感じられないときがある、ということをもっと熟知していたなら、私はよほど落ち着いて待っていられたことだろう。

 アウステルリッツの姿を最初に目にしたとき、「私」は彼に対して、まるで「故郷を追われるか滅亡するかした民族の、数少ない最後の生き残り」であるかのような印象をいだくのだが、その後アウステルリッツによって語られる自身の過去は、言ってみればそうした印象を裏づけるものとして機能している。本書を読み進めていくと、まるで小説というよりは一種のエッセイ、あるいは旅行記のような感じがしてくるのだが、それはたとえば、本書のなかに挿入されているさまざまな写真のせいばかりでなく、まさにアウステルリッツ自身が、自身のルーツを求める旅の過程を語って聞かせるという本書の主要なテーマだからこそのものである。

 イギリスのウェールズ地方で、ダヴィーズ・イライアスという名前で育ってきた彼が、十五歳のときに自分の本名がジャック・アウステルリッツという名前であること、五歳のときに、つまり第二次世界大戦勃発時に、プラハから単身ウェールズのイライアス夫妻に引き取られたことを知り、それから自身のそれ以前の記憶を求めてドイツやチェコを旅していったという彼の語りは、まさに失われた自分を取り戻すための旅に他ならないわけであるが、彼がその記憶の拠り所としているのは、何よりその建築物であるということに、あるいは読者は気がつくかもしれない。古くから変わらずに残っている建築物のなかに、自身の失われた過去を見出そうとするアウステルリッツの思い――だが、そうした過程で彼の心に起こっているはずの激しい感情の揺れは、彼の語りにはいっさい現われることなく、いたって淡々とつづられていくのだが、その内容は――あるいは「アウステルリッツ」という語感、そして第二次世界大戦中のチェコとドイツの関係という時点で、ある程度の察しはつくかもしれないが――けっして軽いものではない。事実彼の語りは、ときに現実から幻想の父親や母親の姿をとらえ、また幼児でしかない自身の姿をも等しくとらえようとしていく。本書の区切りなくつづく文章は、まさに時空の制限をも飛び越えて失われたものを取り戻したいという、切なる願いであり、また祈りの形でもあるのだ。

 本書にはしばしば要塞という建築物に関する言及が含まれるが、十八世紀をつうじて各地で造られた星型要塞が、兵器の発達の速度ゆえにまったくその機能をはたすことがなくなってしまったという事実は、まるでアウステルリッツが自身の過去に対して築いてきた防壁を暗示しているかのようである。いつまでも自身の過去から目をそむけていることはできない。だが、仮にその過去をすべて白日のもとにさらすことができたとして、はたして彼には何が残されているのだろう。そこには、巨大な暴力によって迫害され、その過去から追放された永遠の放浪者がかかえこまなければならなかった、大きな哀しみと空虚さに満ちている。(2006.07.04)

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