【早川書房】
『テロル』

ヤスミナ・カドラ著/藤本優子訳 

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 とある旅行会社の調査資料によると、ここ数年の海外旅行客の人数が伸び悩んでいる、ということらしい。とくに、10代や20代の若者の海外旅行者数が減少傾向にあるそうなのだが、私がその記事にことのほか興味をもったのは、その要因のひとつとして、ネットやテレビなどの情報媒体で代替可能であり、わざわざ外国に行く必要を感じないから、という意見があったからである。

 不景気で余計なお金がないからでも、海外旅行に魅力を感じないからでもなく、外国の情報がすぐに手に入るから、という理由が若者たちのなかから出てきたという事実は、言い換えれば情報を収集することが、何かを体験することよりも重要だと見なしているということでもある。だが、外国の情報を集めたり、ビデオや写真を見たりすることと、じっさいにその国を訪れることとはイコールではない。インターネットの普及によって、私たちが手にする情報量は飛躍的に増加していった。それは私たちに多くの恩恵をもたらしてはくれるが、もし情報はあくまで情報でしかないという事実に無自覚で、情報を収集することで、あたかもすべてを理解できるかのように思い込んでいるのであれば、あるいは物事の本質を見落とすことにもなりかねない。いくら情報をかき集めたところで、自分たちの立場では理解できない事柄など、それこそいくらでもあるのだ。

「きみは多くの犯罪者を見てきただろう。更正した者や、ありとあらゆる凶悪犯や狂信者のたぐいもね。いったいどこをどうすれば人は何のきざしもなく突然、山ほどの爆弾物を身体に巻きつけて、にぎやかなパーティを自分もろとも吹き飛ばしたりできるんだ」

 本書『テロル』の語り手であるアミーン・ジャアファリの発した上述の叫びは、そのまま本書を手にした読者の叫びでもある。アミーンはアラブ系イスラエル人として、イスラエルの都市テルアビブに暮らす優秀な外科医だ。高級住宅地に邸宅をかまえ、妻シヘムとのあいだにも何の問題もなく、医学界における彼の業績も申し分ないもので、アラブ系遊牧民出身という大きなハンディを背負いながらも、イスラエルにおいて確固たる名士としての地位を築いていた。だが、そんな彼のこれまで築いてきたものを、たった一度の自爆テロがすべて消し飛ばしてしまう。パレスチナをはじめとするアラブ系国家と今も紛争がつづいているイスラエルにおいて、自爆テロはけっして珍しいことではない。問題は、その自爆テロの首謀者が他ならぬシヘムその人であるという刑事の言葉にあった。

 いったい、なぜ妻が自爆テロを敢行しなければならなかったのか――第二次世界大戦以降、各地でくすぶりつづけている地域紛争をテーマとした小説を、私はこれまで何作か読んできた。そしてそのたびに、なぜこのような血で血を洗うような絶え間ない負の連鎖を人は断ち切ることができないのか、というむなしい疑問に突き当たることになる。その歴史的背景、それぞれの種族の主張、政治的情勢など、情報なら集めることはできる。だが、どれだけ情報を集めたとしても、なぜ争いがなくならないのか、という問題の本質はいっこうに見えてはこない。本書におけるアミーンの立場は、イスラエルに帰化したアラブ人という、ともすればどちらの陣営にも立つことができ、またそれゆえに、どちらの側からも裏切り者扱いされてしまう立場にあるのだが、彼が本書のなかで追いかけつづける疑問は、あくまで自分の妻が自爆テロを行なった原因という一点に絞られている。そういう意味で、本書は地域紛争におけるどちらの側の主張にも寄りかかることなく、淡々と人々の争いと多くの死を映し出していくことに成功していると言える。

 この上なく幸せな生活をおくっていたはずの妻と自分――妻が自爆テロを敢行する前日の足どりを追って、アミーンはベツレヘムや、パレスチナ自治区へと赴き、ときには自身の命を危うくするような危険人物にも近づいていく。その過程において、アミーン自身の過去や結婚生活の思い出といった回想が差し挟まれるのだが、そのなかのシヘムは本当に幸せそうであり、およそ自爆テロという陰惨な行為とはかけ離れたものである。だからこそ、アミーンのショックと心の傷は大きく、深い。そしてそのうえに、現実の彼の肉体に加えられる暴行が重なる。納得のいく答えを求める旅のなかで、何度となく心と体につけられた傷は、そのままイスラエルとパレスチナの紛争によってつけられた人々の傷であり、彼自身が振り捨て、忘れようとしてきた現実でもある。そんなふうに考えたとき、アミーンが他ならぬ外科医であるという要素が、大きな意味をもつことになる。

 私が憎んでいるのは戦争と革命、そして贖うための暴力の歴史だ。最後のものは歯車のしかけのように、ひとりでまわりつづけ、世代を越えて同じだけの危険な不条理を動かしていく。――(中略)――外科医である私は、人の肉体にはすでに十分な痛みがあるのだから、その上さらに他の痛みをあえて求めていく必要などないのに、と思っている。

 本書の冒頭で、アミーンたちが勤める病院に自爆テロの犠牲者たちが次々とかつぎこまれ、その治療に専念するシーンがあるが、外科医として肉体に受けた傷を治療するという彼の本来の仕事は、しかしその仕事の本質ゆえに、そもそも自爆テロという異常な行為がなぜ起こされたのかという別の本質から目をそむける結果となっている。そして物語が進んでいくにつれて、アミーンとシヘムが見ていたものの違いが少しずつ明らかになっていく。

 自爆テロと地域紛争という、非常に重いテーマを冠した本書であるが、この作品が見事なのは、そうした重いテーマをひとりの人間の問題としてつないでいくことに成功したという一点にこそある。それはたとえば、本書でアミーンとシヘムがかかえる問題を「不倫」に置き換えたとしても、きちんとひとつの物語として成立するということだ。妻に浮気相手がいるとわかったとき、夫がとる行動として、妻や不倫相手といった自分以外の人間に怒りをぶつけるか、あるいは自分自身に怒りをぶつけるかのどちらかである。本書の場合、妻はすでになく、「不倫相手」に該当する人物もはっきりしない。それまで誰よりもわかっているはずの妻に裏切られた格好となったアミーンは、必然的に自分自身に原因を求めていくようになる。それは、彼が今の地位を得るためにあえて捨ててきた自身のルーツに、あらためて目を向けるということでもある。

 いっぽうで世の中の逆境に背を向ける人がいて、いっぽうでその逆境に歯向かっていく人がいる。そのどちらが正しく、どちらが間違っているのか、という答えが本書のなかにあるわけではない。ただひとつだけ言えることがあるとすれば、そうした人々の思いなど何の関係もなく、自爆テロは何もかもを吹き飛ばしてしまうということだ。そこには底のない絶望しかないように思えるのだが、それでもなお抗うこと、戦うことを選んだ人たちの心を、はたして私たちはどれだけ理解できるというのだろうか。(2007.12.12)

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