【新潮社】
『贖罪』

イアン・マキューアン著/小山太一訳 



 人がなぜ小説を書くのか、という命題については、その作家の立場や目的意識、あるいは書く内容などによってさまざまであるが、ひとつだけ明確な意図があるとすれば、それは唯一無二の現実―― 一度起こってしまった事柄は、けっしてくつがえすことも、なかったことにすることもできない圧倒的な事実の積み重ねに対して、自分が納得のできるもうひとつの現実を再構築するための手段、ということだろう。

 たとえば三浦哲郎という作家は、自分の姉妹に白子(アルビノ)が生まれたという事実、そしてそこから生じた血族や因習の業、家族たちのたどった運命といった、あまりにも重く陰惨な現実について、自分なりに納得のいく解釈を加えたもうひとつの現実を再構築する必要があった。そこから生まれたのが『白夜を旅する人々』という自伝的小説であるが、三浦哲郎にとって、それはまさに自分がこの耐え難い現実を、それでも生きていくためにどうしても成さねばならない作業だった、と言うことができる。

 これは何も、私小説のたぐいばかりにあてはまるものではない。ミステリーというジャンルで安易に殺人事件が起こるのは、けっしてひとりの人間の死を軽んじているわけではなく、現実において未解決のまま迷宮入りしてしまう数多くの事件に対して、虚構という手段をもちいてきちんとした形で決着をつけ、名もなき死者と事件の犯人を定義する行為であると論ずる人もいる。また山田風太郎の『八犬伝』では、悪や不正が平気な顔をしてのさばる現実への反逆として、それが架空事であることを受け止めたうえで、あえて「正義が勝つ」物語である「南総里見八犬伝」を書き続ける滝沢馬琴の姿を描いている。

 この世には数多くの小説が溢れ、それは現在も書かれ、そしておそらくは今後も生み出されつづけるのだろうが、小説が書かれる意味についてあらためて考えたとき、この世には唯一無二の現実のみが厳然と実在しているわけではなく、その世界に生きる人々によって都合の良いように歪められ、あるいは再構築された無数の虚構世界が平行して存在している、ということを思い知ることになる。もちろん虚構はあくまで虚構であって、圧倒的な現実の前には何の力もない。しかし、私たちがそれらの小説を読むとき、もし私たちが知りえるのがその小説に書かれた事柄のみであるとすれば、そのストーリーのどこまでが現実の出来事で、どこまでがその著者によって歪められた虚構であるのか、といったことを特定することは不可能だし、そもそも無意味なことでもある。私たちは必然的に、その小説内のストーリーのみで物事を判断するしかないのだ。

 本書のタイトルである『贖罪』という言葉は、いかにも意味深な存在感をもっている。私たちがこの言葉を目の前にしたときにまず考えるのは、「誰がどんな罪を犯したのか」ということであり、また、その罪に対してどのような贖いを行なったのか、そしてその結果どうなったのか――はたして罪は許されたのか、それとも許されなかったのか、ということでもある。そして、本書の物語もまた、そうした読者の憶測を裏切らない展開を見せることになるのだが、ただそれだけのものとして本書を判断していると、最後の最後に仕掛けられたどんでん返しにまんまとしてやられることになる。本書が指し示す「贖罪」とは、そんなに単純なものではないのだ。そのあたりの物語構成の、ある種のいやらしさは、いかにもイアン・マキューアン的なものだと言える。

 物語は基本的に三部構成であり、その後ろに短い章が付加された形をとっている。第一部では、1935年にタリス家で起こったある事件について書かれているが、それは、その家の使用人の息子であり、それまでタリス家の家族同然に育てられたロビー・ターナーが、婦女暴行の罪で投獄される、という事件である。この第一部の主題が、ロビー逮捕につながる決定的な証言を一貫して主張した、当時13歳のブライオニー・タリスがどのような経緯でロビーが犯人であると誤解するにいたったのか、という点であることは、ひとつの出来事をブライオニーの視点だけでなく、姉のセシーリアやロビーの視点も含めて描いているところからもあきらかだろう。セシーリアとロビーはお互いに愛し合っていたのであり、その場面を偶然目にしたブライオニーは、ロビーが偏執狂であると思い込んでしまったのだ。

 第二部では一転して、出所したロビーの戦争体験記となっている。イギリス軍兵士としてフランスの戦場にその身を置いていたロビーが、ドイツ軍の圧倒的な戦力に壊滅寸前に追い込まれた味方の軍とともに退却する様子が描かれている。そして第三部では、看護婦として働くようになった18歳のブライオニーが、あの事件以来家族とのかかわりを断っていたセシーリアのもとに赴き、そこでセシーリアとロビーが恋人どうしとして結ばれていることを知り、そしてかつて自分が犯した過ちを認め、法廷での証言を取り消すことを誓う。

 こうして物語の表面上のあらすじを追っていくと、そこにあるのはちょっとした誤解から生じたとりかえしのつかない事態が、さまざまな紆余曲折を経て最終的には解消されていく様子を描いた人間ドラマであり、また冤罪はかならず晴らされ、人が人を愛する想いはどんな困難をもってしても妨げることはできない、という、ある種の人間賛歌をうたっているようにも思える。それは間違いではない。だが、ここで問題となってくるのは、それらの物語が誰の手によって書かれたものであるのか、ということである。

 第一部に登場する13歳のブライオニーは、空想癖の強い、架空の世界にのめりこみがちな少女で、いろいろな劇や物語をつくっては、それを家族に見せびらかすことに夢中になっていた。物事の断片から、自由に想像力の翼を羽ばたかせていくこと――それはいかにも子どもらしい、素晴らしい力ではあるが、いったんその空想が虚構の世界から抜け出して、現実の世界に影響をおよぼしはじめたとき、当人でさえ予測もつかない猛威をふるうことがある。その強い思い込みによって現実の姿が見えなくなっていたブライオニーは、自分の妄想の赴くままに事実を捏造し、結果とてし無実のロビーを刑務所に送り込み、セシーリアとの仲を決定的に引き裂くという、最悪の事態を招いてしまった。それは、意図的であるかないか、あるいは明確な悪意があったかどうか以前の問題である。

 ブライオニーにとって、それはこれまで自分の無二の親友であり、絶対的な味方であったはずの空想が牙をむいた瞬間でもあったはずだ。虚構が現実を凌駕することがある、という事実を知った彼女はその後、大学への進学も断念し、看護婦としてその日その日を忙しく働くという道を選ぶ。それはいっけんすると、物語を創造するという行為からいっさい手を引き、現実だけを見つめて生きていくかのような決断であるが、だが本書を読みすすめていくと、じつはブライオニーがある物語を創作しつづけていることがわかってくる。

 そう、彼女はけっして自らの空想に、物語の力に屈服したわけではなかった。むしろ、その力を逆手にとって、自分がもっとも望む姿へと現実を変えていこうとさえするのである。かつて、ブライオニーが創造し、けっきょくは上演できなかった創作劇「アラベナの試練」――愚かな選択のために不幸になる少女が、最後にはすべてが許されて幸せをつかむという筋書きのように、セシーリアとロビーは受難を乗り越えて結ばれる必要があったのだ。そして、そのために彼女が何を成し遂げたのかが明らかになったとき、本書のタイトルである『贖罪』の、本当の意味が見えてくる。

 本書が提示した「贖罪」の形について、思うところは人それぞれだろう。なぜなら、その「贖罪」もまた、けっきょくは個人の妄想の域を出ないものだからだ。だが、その個人の強い思い込みが生み出すひとつの特異な世界観は、いかにも『愛の続き』の作者であるイアン・マキューアンらしいし、それもまたひとつの真実だろうと私などは思ってしまうのだ。(2004.07.01)

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