【河出書房新社】
『地図集』

トン・カイチョン[薫啓章]著/藤井省三・中島京子訳 



 ナンシー関が冊子「通販生活」のなかで連載していた『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』は、出されたお題に対して冊子読者が純粋に記憶だけでスケッチした絵を紹介するという企画であるが、これはただたんに人間の記憶力のあいまいさで笑いを誘うというだけでなく、私たち人間の現実認識に対する不確定さを露呈させるものでもある。私たちは普段の生活のなかで、唯一無二の世界があって、その絶対的な大地に足をつけて生きているという概念をなかば当然のものとして受け入れてしまっているが、私たち個々の自我がとらえる「世界」とは、きわめて主観的なものによって支配されている。そしてその主観というのは、きわめて曖昧模糊としたものでしかない。

 たとえば、アメリカのある心理学者グループによる次のような実験結果がある。ある簡単な動作をひとりの人間に覚えさせる。彼は当然のことながら、その動作を正しく繰り返すことができるのだが、その後彼をあるグループのなかに混ぜ、そのグループ全員が、彼が以前覚えたものとは異なる動作を「正しい」ものとして繰り返していくと、いつしか彼もそのグループの「正しい」動作が本当に正しいものだと思い込み、同じふうに繰り返すようになる、というものだ。これは突きつめていくと、いくらひとりの人間が真実の姿をとらえていたとしても、周囲にいる誰もがありもしない虚構を本物だととらえていれば、その虚構がいつしか実体をもつ「真実」と化してしまうことを意味する。

 世界を認識するのに重要なのは、それが真にリアルなものとして実存しているかどうかではなく、いかに多くの人々がその事物の実存を信じ込んでいるかということだ。そういう意味では、小説家という人種はいわゆるリアルとは対極にある虚構を構築する者というよりは、その当人にとってのまぎれもない「真実」を、リアルの世界に書き換えていこうとする不屈の意思の持ち主であり、まだ見ぬ世界の姿を追い求めつづける開拓者でもあると言うことができる。本書『地図集』は、表題作のほかに三作の短編を収めた著者の作品集であるが、読み終えてまず思うのは、作品世界における虚構性について、非常に強く意識しているという印象である。

 だが植民地の時代が終わりつつあるとき、僕たちは自分の頭が空っぽだということに突然気づき、急いで自分の身分を確認したくなったのだが、小説のほかには、フィクションのほかには、僕たちには頼るべきものはないことを発見したのだ。

(『永盛街興亡史』より)

 引用した短編『永盛街興亡史』の「永盛街」とは、語り手の青年が子ども時代をすごした香港の繁華街のひとつのこと。語り手はいったんは両親とともにカナダに移住したものの、二年前に単身香港に戻り、残された祖母の家で今は地図の上から消えてしまった「永盛街」の歴史を掘り起こそうとしているのだが、それは同時に、青年の一族のルーツを探るという目的ともつながっている。そしてその契機となっているのが、上述の引用文にもある「植民地の時代」の終わり――すなわち一九九七年の香港返還である。語り手のすごした街は、あくまで香港が中国に返還される前のものであり、香港返還というイベントは、それまで不動のように思えた街そのものが大きな変化を余儀なくされることを意味する。

 じっさい、他の繁華街とは異なり、それほど目立った特徴があったわけではない「永盛街」は今はなく、青年の努力にもかかわらず資料収集は断片的なものばかりであり、ある時代から以前にはどうしても手が届かない。故郷の喪失は、語り手にとっては自己を形成するアイデンティティが大きく揺らぐことを意味する。香港返還という時代のうねりのなかで、自身のたしかな拠り所としての「永盛街」を求めるいっぽうで、元恋人である詠詩との絶ちがたいつながりに苦悩する語り手の姿は、どこか哀愁を感じさせるものがあるのだが、そんな彼が断片的な資料のなかから、あらたな「永盛街」の物語――虚構ではあるが、同時に語り手の主観としての「真実」をそこに求めるという視点をさらに発展させたものが、表題作『地図集』となって結実している。

「理論篇」「都市篇」「街路篇」「記号篇」の四章からなる『地図集』は、そのサブタイトルに「ある想像の都市の考古学」とあるように、今はなきヴィクトリア市――現在は香港と呼ばれている都市について残存する数々の地図を、考古学的な資料として考察・研究するという体裁をとっており、いっけんすると学術書のような印象を受けるのだが、よくよく読み込んでいくと、そこにはあきらかなフィクションとしての要素が散在していることに気がつく。たとえば「街路篇」に収められている「糖街」では、その名称の由来として、昔そこに製糖工場があったという事実を事務的に書いておきながら、じつはその前身が造幣工場だったことに触れ、そこから「労働者が融かした液状の銀を銀貨造幣機に流し込んだところ、なんと純白で輝かんばかりの白糖ができ上がったというのだ」という怪しげな異説の展開へと続いていくことになる。

 ごく常識的に考えていけばありえないようなこうした論考によって成り立っている『地図集』であるが、そこにはひとつの明確な意図として、虚構による現実の超越というものがある。あくまで研究書という体裁を保つため、数々の文献や人名を文章に織り交ぜ、さらに考古学という、現在から遠くはなれた時代の学問であるということを踏まえているこの作品は、たしかなフィクション性をもちながらも、現実との境界線と拮抗するような、一種のだまし絵的な印象がある。だが、それゆえにそこから浮かび上がってくるヴィクトリア市、あるいは香港という都市には独特の存在感がある。たしかにかつて存在したはずの場所であり、今も「香港」として現存する都市の過去の姿――資料という形でしか再構築することのできないその都市は、しかしそれゆえに人々の想像力を喚起するものであるし、逆に言えば想像力によって空白を埋めていくことで、千変万化していくものでもある。

 同派の学者たちの関心は、どこが正確な「屯門」の場所であるかなどではなく、彼らはその種の問題の正当性をすらも否定するほどだ。彼らが没頭して追及しているのは、この「屯門」という名の「場所」がいかにして地図上に表現され読解されたかである。

(『地図集』「錯置地(理論篇)」より)

 小説家が書く物語はフィクションではあるが、彼らによって構築されたものが、それが嘘偽りであるというだけの理由で軽んじられて良いというのは、私たちのとらえるリアルがいかに曖昧で、ちょっとしたことで影響を受け、変質してしまうものであるかということを考えれば、あまりに浅薄な了見であろう。むしろそれが虚構であると意識しながらも、なおその虚構がある個人のたしかな現実となり、本質となっていくことで、自身の曖昧な世界における立ち位置をたしかなものとすることができるのであれば、それはもはやその人にとってのひとつのリアルとなっていく。香港生まれの作家である著者にとってのまぎれもない故郷、まぎれもないアイデンティティとは、まさに本書の虚構の都市とともに再構築された「香港」であり、それは今後も再構築されつづけていくことになるのだろう。そしてそれは、ひとりの「小説家」としてはもっとも理想的な姿でもある。現実と拮抗する虚構としての街――その魅力的な場所をぜひ一度散策してもらいたい。(2013.03.10)

ホームへ