【新潮社】
『阿修羅ガール』

舞城王太郎著 
第16回三島由紀夫賞受賞作 



 人はいずれ必ず死を迎える。そして、そのまぎれもない事実から目をそむけつづければ、人はいつか自分を殺すか、あるいは自分以外の誰かを殺すかしかなくなってしまう――白石一文の『僕のなかの壊れていない部分』のなかに、そういった意味合いのことが書かれていたのを憶えているが、死の現実を自分自身のものとして受け止めるということは、自分のなかにある闇の部分に目を向ける、ということと同義だと言える。

 まぎれもない自分とは何なのか、という命題は、誰もが一度は考えずにはいられないものがあるのだが、そこにあるのは、自分が誰なのか、どんな人間なのか、その本質のところが判らないことから生まれる不安や恐怖である。あるいは、自分が判らないということに対して無頓着な人、「自分のことなど自分がよく知っている」と信じて疑わない人もいるかもしれないが、それでもなお、自分のこれまでの人生におけるすべての言動において、すべて自分の意思のままに選択し、行動したと自信をもって言える人は、誰ひとりとしていないはずである。少なくとも私は、自分という人間が自分の意思とは裏腹に、思ってもいない言葉を口にしたり、行動をとったりすることをよく知っている。

 私たちは、ふだんはこの世界をとりあえず生きることに精一杯で、自分の本質とかいうことについて、ことさら深く考えたりはしないようにしているが、世の中というのはなかなか自分の思いどおりにはならないものであるし、またそれ以上に自分自身のことについても、自分の思いどおりにはならない。せいぜい私たちにできるのは、すべてが終わった後に何らかの動機づけを行なうことで、すでに起こってしまった出来事に対して自分を納得させることだけである。そして、あるいはそんなときにこそ私たちは、まぎれもない自分自身であるはずなのに、そのなかにある自分の思いどおりにならないなにものかに対して、本当に恐怖するのかもしれない。

 テレビのニュースや新聞などには、毎日のように誰かが死んだり殺されたりといった事件が溢れているが、そうした本来痛ましいはずの事件に対して、その直接の当事者ではない人々の反応は、きわめて冷淡なものである。本書『阿修羅ガール』という作品では、けっこう多くの人たちが死んだり殺されたり、あるいは傷つけられたりするのだが、一人称の語り手である桂愛子の態度は、冷淡というよりも、むしろ無頓着で後先考えないような興味をしめす、という意味で、いかにもありふれた日常に飽き飽きし、なんらかの刺激やスリルを求めずにはいられない少年少女の心理を代弁するような存在だと言える。

 とくに好きというわけでもない佐野明彦とセックスしてしまう愛子、でもそのセックスのやり方が気に入らなくて、明彦に蹴りを入れてひとりでラブホテルを出てしまう愛子、次の日、クラスメイトのマキにトイレに呼び出されて、逆に彼女をシメてしまう愛子、そして昔からふざけたことばかりして目立ってしまう、しかし「愛」なんて言葉を臆面もなく口にする金田陽治のことが、じつは好きだったりする愛子――物語は、愛子がホテルに置いてきた佐野明彦が、じつはその後何者かの手によって誘拐されてしまい、陽治と愛子が彼の行方を捜しだそうとする、というミステリー的な展開になるのだが、これまでの著者の作品がそうであったように、探偵役ともいうべき金田陽治の物語の流れと、語り手である桂愛子の物語との流れは、完全にシンクロするわけではない。むしろ著者特有の、脳内思考をそのまま言葉に起こしていくような語り口調の連続は、ますます読者をミステリーとしての物語の流れから逸脱させることになる。

 もし探偵役の登場人物に物語の主体が置かれるのであれば、おそらく正統なミステリーとしての流れが展開していくことだろう。だが、主体がただ彼のことが好きだというだけで、表面上はクラスメイトのひとりでしかない女の子である以上、彼のすべての言動について把握するのは現実問題として不可能に近い。このあたりのある種屈折した形のリアリティもまた、著者のこれまでの作品に共通するものであるが、こと本書に関して言えば、そうした主体の逸脱の意図というものがかなりはっきり表面化してきている。それは、人間の死というものに対するリアリティーのなさ、今この瞬間も、世界のどこかで誰かが理不尽な死を迎えていたり、誰かに無残な殺され方をしているかもしれない、という事実に対する想像力のおよばなさを表現することである。

 じっさい、愛子の視点で描かれる物語のなかで、もしかしたらすでに殺されているかもしれない誘拐事件が起こり、自殺があり、大規模な集団暴行があり、さらに過去には「グルグル魔人」なる殺人鬼が三つ子を殺害するという猟奇殺人が起こっていたりするのだが、彼女のなかにはそれらの事件が、もしかしたら自分の身にもふりかかってくるかもしれない、という想像力が欠如しているどころか、誘拐事件がもしかしたら狂言ではないかと考えているうちに、自分でも狂言誘拐をしてみようかなどと不謹慎なことを考えたりする始末である。もっとも、彼女があくまで主体である以上、心の奥の本当のところで何を考えているのか、そのあたりについては巧妙に隠している可能性もなくはないが、そのあたり真偽についても、その後の愛子の妄想というか、夢のなかの出来事というか、ともかく妙に現実離れしたファンタジーのような展開の前に、遠く霞んでしまうことになる。

 ミステリー的な展開で始まりながら、徹底してミステリーから逸脱してしまう物語である本書について、ただひとつだけ言えるのは、あくまで他人の誘拐事件の結末ではなく、自分自身の心の闇と対峙することになった女の子がいて、彼女が主体である以上、本書はそんな彼女の成長と、人間としての本質を描くことこそがメインだということである。自分の身にもいつか必ず訪れることになる死の現実、そしてそこから湧き上がる、そもそもこの世界で生きることの意味、死の本質と、もしかしたら誰もが心のどこかで育てているのかもしれない怪物との関係――相変わらずの舞城節が炸裂している本書であるが、そこに書かれていることは、そうした語り口の軽さとは裏腹の、あるいは私たちが今なによりも目を向けなければならない命題であるのかもしれない。(2006.09.13)

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