【PHP研究所】
『利休にたずねよ』

山本兼一著 
第140回直木賞受賞作 

背景色設定:

 崇高な目的のためにその人生をささげた聖人君子、偉大な発明や素晴らしい芸術を残した科学者や芸術家、それまでにない概念や思想を編み出した思想家や哲学者――歴史的にも名高い有名人たちは、その業績だけをとらえてしまうと、まるでそうした業績を残すためだけに生み出された、私たち凡庸な人間とは大きくかけ離れた特別な存在か何かのように思ってしまいがちであるが、じつは彼らとて、私たちと同じ人間であったことに違いはない。日々の生活に追われ、つまらないことに一喜一憂したり、あるいは誰かに恋して恥ずかしい思いにふけったりしたはずなのだ。

 歴史的著名人が登場する小説を読むことの楽しみのひとつは、百科事典的な知識からはうかがい知ることのできない彼らの、きわめて人間味溢れる部分に触れることができるという点にあるのだが、そんな彼らの、いずれは歴史に名を残す偉人となるきっかけというものがはたしてどこにあったのか、ということをふと考える。人はある日突然偉人になるわけではない。日々のごくわずかな変化が積み重なっていった結果として、目に見える大きな変化として表われてくるものだ。であるなら、その最初のきっかけは、じつは崇高でもなんでもない、じつに人間臭い動機であったとしても不思議ではない。どれだけつまらないように見える要因であれ、それを思いつづけ、長く続けていけば、そこに時間が積み重なり、意味が生まれてくる。当人がそのことを意識しているかどうかは、あまり意味をもたない。何かに対する評価というものは、たいてい自分以外の誰かが勝手に判断するものであるのだから。

 瞼を閉じると、闇のなかに凛々しい女の顔がくっきりとうかんだ。
 あの日、女に茶を飲ませた。
 あれからだ、利休の茶の道が、寂とした異界に通じてしまったのは。

 今回紹介する本書『利休にたずねよ』が、茶道の大家である千利休にかんする物語であることは、そのタイトルを見れば一目瞭然であるが、私が本書を読んで思ったのは、この作品がたんなる利休の伝記というよりは、むしろ利休というひとりの人間の心理について、精神の奥深くに分け入っていくような物語だということである。そして、そのように感じた要因のひとつは、時間の流れを逆行していくという物語の構造にある。

 本書の冒頭の章は、利休が切腹することになる朝の様子である。表向きの罪状はいくつか挙げられてはいるが、要は天下を統一した関白秀吉の威光にけっして屈しようとせず、あくまでおのれの求める美に忠実であろうとした利休の意地がもたらしたものである。形だけでも詫びを入れればよいと諭す臣下の言葉にも、頑としてうなずこうとしない利休は、結果として自身の意地ゆえに自害することになるのだが、次の章に移ると、時間が利休の切腹する前日に巻き戻っており、およそ美の世界において、誰にも屈服させることのかなわない利休の存在がどうしても気に食わない秀吉の、屈折した思いが書かれている。

 利休の切腹の日をひとつの臨界点として、利休本人やその周囲にいる人たちに主体を次々と移しつつ、少しずつ時間を遡っていくという特長をもつ本書において、主体が次々と入れ替わっていくことの意図は、一般的にはわかりやすいものだ。何人もの登場人物の視点をあてることで、利休という人間の人物像を重層的なものとして浮かび上がらせる――だが、本書を読んでいくとわかってくることであるが、そうやって利休の人となりをとらえていこうとしても、その本質的な部分は、まるで網の目をすり抜けていくかのように判然としない。むしろ、人々の印象を集めれば集めるほど、利休という人物の中心に迫っていけるどころか、いつまで経ってもその周辺をぐるぐる回っているだけのような気さえしてくるのだ。

 一服の茶を立てることで、いかに相手に満ち足りてもらうか――ただその一点のみに、文字どおり自身の命さえ懸けてしまえる利休の茶道は、一見すると侘び寂びの風情を尊びながらも、そこに艶めいた生命の躍動感を漲らせるものがあり、慇懃で物静かなその立ち居振る舞いの裏に、およそ美しいものを愛でることに対する妥協を許さない貪欲さと、自身の審美眼に対する絶対の自信をほとばしらせている。それは、ともすると矛盾する要素でありながら、利休のなかではひとつの真理であるかのごとく同居してしまっている。彼を信頼し、その審美眼に崇敬をいだく者はもちろん、彼のことを快く思っていない者でさえ認めざるを得ないその美のセンスは、はたしてどこから生まれてくるものなのか。多くの大名でさえ彼に弟子入りし、その目利きでただの茶器に莫大な価値が生まれてしまう利休を利休たらしめているものは、はたして何なのか。

 時間を遡っていくという本書の構成は、そうした謎にひとつの解答を出すためのものであり、また結果に対する原因を突き止めるためのものでもある。そういう意味で、本書はきわめて特異なミステリーだと言えるかもしれない。そしてそこには、利休が常に肌身離さずもっていたという緑釉の香合、そこからほのかに浮かんでくるある女性の存在がからんでくる。本書が真に卓越しているのは、たとえば利休のつくる茶室が晩年になってますます狭く、暗くなっていくのはなぜなのか、いや、そもそも茶室の入り口が身を屈まなければ入ることのできないほど狭いものとなったのは、なぜなのか、といった謎に対して、理性の部分ではなく、感情の部分での答えを見出していこうとする点だ。それはたとえるならば、催眠術で本人すら意識していない過去を遡っていくという作業とよく似ている。

 本書は利休の話であるが、同時に彼が生涯をつくした茶道の話でもある。その過程において、各人各様の茶道があり、それぞれが茶道に対する思い入れを胸に秘めている。たとえば秀吉にとっての茶道は、自身の絶対の権勢を象徴するものであると同時に、家臣の心をコントロールするための策略のひとつである。だからこそ、その「絶対」の上に君臨する利休が許せない、という彼の心理が見えてくることになる。同じように家康には家康の、光成には光成なりの茶道があり、また利休の茶道を懸命に模倣しようとする細川忠興のような人物がいるかと思えば、利休とはあえて異なる方向での茶道を研鑽していく古田織部のような人物も出てくる。だが、そんな彼らをしてなお、その深遠を覗き見ることのかなわない利休の茶道――はたして、時間を遡ったはてにあるものが何なのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.07.16)

ホームへ