【集英社】
『アッシュベイビー』

金原ひとみ著 



 精神と肉体、心と体、中身と外見、言い方は人それぞれだろうが、もし自分というものが心と体のどちらに属するものなのか、と問われたとき、あなたはどのように答えるだろうか。

 私たちがその身にまとっている肉体は、しばしば私たちの精神の作用とは裏腹に、生きるための欲求に忠実な反応を示し、また行動をとる。腹が減れば何かを食べろと要求してくるし、眠くなれば当人の意思とは無関係に休息をとろうとする。生命の危機に直面すれば理性など吹き飛ばして思いもよらない行動をとるし、もよおせば排泄しなければならず、そして後の世に自分の遺伝子を残したいという欲求は、ときに抑えがたい性欲となってそのはけ口を異性の肉体に求めていく。それは私たちに、自分というものを構成しているこの肉体が、まぎれもなく動物の一種であり、それゆえにその根本に生存本能が宿っていることを思い知らせる現象であるが、同時に私たちは、自分を意識することを知り、そこから純粋に他人を思いやるための想像力をはたらかせることができる生き物でもある。そして、自分の肉体の欲求と、自分を意識する心の作用との相違は、しばしば私という個人をまっぷたつにしてしまいそうなほどに思い悩ませることになる。

 人間は動物とは違う。人としての価値は、けっしてその容貌や肢体の美しさだけで決めることはできない。だが、私たちが人と出会うとき、まず目にするのはその外見であり、欲情するのも、それに反応するのも体である以上、そのアイデンティティの拠り所として、自分の肉体がそれなりのウェートを占めていることも、痛いくらいよく承知している。私たち人間には心と体があり、本来ならそのふたつを合わせたすべてが自分というアイデンティティを構成する要素であるべきだ。だが、自分に関係してくる人々が、あまりにその外見、その容貌、その肢体ばかりに注目し、その価値を褒め称えてばかりいたとしたら、その人の心と体のバランスは大きく崩れ、どこかが大きく歪んだ人間が生まれてしまうのではないだろうか。

 本書『アッシュベイビー』を読み終えてまず感じたのは、本来であれば両方とも自分のものであるはずの肉体と精神が決定的に切り離され、それゆえにどちらが本当の自分なのかがわからず苦悩している者の心の叫びである。語り手のアヤは、魅力的な容姿をもつ二十代前半のキャバクラ嬢で、現在ホクトという男性とルームシェア中。だが、ホクトは幼女にしか性愛を感じない変態で、恋人どおしなどといった雰囲気とはもっとも遠い場所にいる。そもそもアヤはこれまで、誰に対してもけっして心をさらけ出さないし、そんな付き合いを望んでもいないし、また自分に心を許してきた者のことを受け入れたこともなかった。だが、キャバクラ嬢として客をとれるだけの美貌はそなえているので、常にその肉体目当ての輩に困ることはない。そして望まれればセックスをする。したくないと思う理由もない。まるで、自分の価値がその肉体だけだと信じ、だからこそその肉体が、たしかに自分のものなのだと確かめずにはいられないかのように、情事にふける。

 そんなある日、アヤはホクトの紹介で店にやってきたという村野という男と知り合い、唐突に自分は彼が好きなのだと気づく。そう、本書のなかで語られるのは、ある女性の恋愛の行方である。だが、本書の雰囲気をちょっとでも感じ取った方であれば、およそこの物語が、いわゆる「恋愛」などという甘ったるいものとはもっともかけ離れたところにあるのがわかると思う。なぜなら、けっきょくのところアヤも村野も、お互いのほうを向いているようでありながら、じつは自分自身の方にしか向いておらず、しかもアヤのほうはそのことに気づいていながら、それをどうすることもできず苦悶するしかないのだから。

 女性でありながら、男性に媚びるような、いかにも女性らしい言葉遣いとは無縁の乱暴な言動や、あくまでセックスの快楽を享受することへのこだわり、という点で、本書は山田詠美の著す作品と似たところがあるように思える。だが、それはあくまで外見が似ているだけあって、その本質は決定的に異なっている。山田詠美の描くセックスは、たとえば愛する男性と食事をしたり、会話したり、あるいは酒を飲んだりするといった楽しみ、相手のことを理解し、また相手にも自分のことを理解してもらおうとする手段のひとつであるのに対し、本書のセックスは、けっして自己愛から先へと突き抜けていくことがない。それまで自分のことしか考えられなかったアヤの心に、はじめて生じた恋愛感情らしきもの――だが肝心の村野は、彼女の肉体に欲望をいだくようなそぶりを微塵も見せたりしない。いっぽうのアヤも、これまでにない感情をどうすれば昇華できるのかがわからず、けっきょくは自身がもっとも信頼を置いている肉体にものを言わせるしかない。体と心が切り離されているがゆえに、彼女の思いはけっして彼女の外に向かうことなく、彼女のなかでぐるぐると渦を巻いたあげく、その思いによって自家中毒を起こしてしまう。それはなんと不毛な喜劇であり、また悲劇であることか。

 自分のことを好きになってほしい。セックスして喜んでほしい。だが、セックスという行為はあくまで愛情表現のひとつであって、それだけがすべてであるわけではない。アヤという女性はその部分が決定的にわからない。いや、わかっていながら、それでも自分の体を使うという方法しか思いつけない。嫌な相手をののしるための汚い言葉ならいくらでも口から出てくるのに、自分の思いを伝えるのに、ただ「好きです」とオウムのように繰り返すことしかできない。そしてそのことに自分でもムカついて、さらに過激な行為におよんでいく。まるで、自分の体を人形か何かのように壊していくことをためらわない、『クビシメロマンチスト』の語り手いーちゃんのように、必要とあれば自分の体を切り裂いて、新しい「裂け目」を用意しかねないアヤの心理は、どこか狂気じみている。だが、人は多かれ少なかれ、肉体と精神とに引き裂かれ、なんとかそのふたつと折り合いをつけていくしかない、卑小で愚かな生き物ではなかったか。

 本書のなかには、これといった筋書きなど存在しない。それどころか、きちんとした形で終わってさえいないようでもあるし、そもそもきちんとした物語を書こうとしているのかどうかも、じつは怪しいところがあるように思える。もし、本書に読む価値があるとすれば、それはただひとつ、ひたすら肉体に縛られ、孤立してしまった心がけっして外へ向かうことなく、それゆえに自分自身の生にさえ価値を見出せなくなってしまった、今時の若者の、ひりひりと乾ききってしまった心のありさまを垣間見ることができるという点につきると言えよう。(2004.06.02)

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