【講談社】
『アサッテの人』

諏訪哲史著 
第50回群像新人文学賞/第137回芥川賞受賞作 



 たとえば、日本語の歌を聴くときには、どうしてもその歌詞の意味とかに意識が向かってしまって、曲そのものを楽しむことが難しかったりするのだが、外国語の歌の場合、言葉の意味を即座に理解できないがゆえに、より純粋に曲を楽しむことができたように思う。今でも、頭のなかを空っぽにしたいようなときには、邦楽よりも洋楽を好んで聴いたりすることがあるが、それは言葉という、本来であれば情報伝達の手段であるはずのものが、その意味を失ってたんなる音感としてのみ受け取られているからに他ならない。

 言葉の内容を理解できないというのは、コミュニケーションの断絶であり、世界からの孤立を意味する。それは生きていくうえでこのうえなく不便なことではあるが、逆に言葉を理解するがゆえのさまざまなルールや定型から解き放たれている、と言うこともできる。言葉には意味がある。それは、その言葉を母国語とする人にとってはあまりにあたり前すぎて、ふだん意識することすらないが、それをはじめて耳にする人が、その言葉の意味よりも響きを先行させることによってとらえるイメージには、定型にとらわれないがゆえの斬新さがたしかにある。

 自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して、圧倒的に無関係な位置に至ること。これがあの頃の僕の、「アサッテ男」としての抵抗のすべてだった。

 本書『アサッテの人』でまず驚かされるのは、小説を書こうとして破綻したことを前提として話が進んでいくという、ある種の逆説的なスタイルである。本書に登場する「私」は、どうやら失踪したまま今に至る叔父のことを――とくに、妻の死後より顕著となるある奇行について書こうとしたものの、その奇行そのものがあらゆる作為を否定するたぐいのものであるという認識ゆえに、小説という「作為」ではおよそ表現できないと判断してしまうのだ。

 『アサッテの人』というタイトルの小説は、たしかにここにある。にもかかわらず、その作品内で作者たる「私」が、あまりに作為的なその小説を書くことを放棄し、小説の草稿や叔父が残した手記といった資料を提示することに費やしていくというこの矛盾をまのあたりにする私たち読者は、それまであたり前のようにやってきた「小説を読む」という、おさだまりの行為からふと立ち返らざるを得なくなる。小説とはそもそも何なのか? 物語世界にどっぷり浸かろうとしていた読者としては、現実を思い起こさせるような作品に高い評価を与えないものであるが、本書のもっとも大きなテーマである「アサッテ」について語るうえでは、このうえなく有効な方法だと言える。なぜなら「アサッテ」とは、なにより私たちが思いつくあらゆる定型からの逸脱を目的としているからである。

 試みに、本書がどんな内容の作品であるかを説明してみよう。たとえば、「私」の叔父は現在失踪しており、その行方は今もってわからないのだが、その理由があきらかにされることはない。もちろん、妻である朋子の死や、彼が過去に吃音に悩まされていたといった情報は提示されるし、彼が書いた日記めいたものもある。だが、そのいずれも叔父の失踪の真相をつきとめるようなものではない。そしてその真相について解き明かそうとすれば、それは必ず「いかにも小説的な」定型のものへと収束していくことになる。わけのわからないものに対して、何らかの枠に押し込めることで無理やり納得してしまおうというのは、社会を構成して生きる人間の性のようなものであるが、そうしたものを、本書はなにより嫌っているのだ。

 何の前触れもなく、「ポンパ!」と絶叫する叔父、妻の死後、勤め先を辞めて田舎の団地に引きこもってしまった叔父、そして失踪したまま行方の知れない叔父――そんな彼の理解しがたい言動をもって、狂気に陥ったと判断するのは簡単であるし、作中で作者自らが言及するように、叔父の奇行を面白おかしく表現していくことも、難しいことではない。なぜなら、それらの反応は私たちが容易に想像できるたぐいのものだからである。だが、そこから翻って自分自身の言動に目を向けたときに、私たちはいつのまにか、人々が想像するだろうことをして過ごしていることに気づく。

 たとえば、朝起きて、朝食をとり、会社に行って仕事をし、帰って夕食をとって、残りの時間を家族と団欒したり趣味の時間にあたりして、就寝する――それは、ひとりの社会人の生活としては、まさにありきたりな出来事であり、習慣でもある。もちろん、細部はいくらか異なるかもしれないが、それでも人間のとりうる行動として受け入れることができるものばかりだ。そこには、たとえば交通事故に遭うとか、宝くじに当たるとかいった、現実には相当にレアなケースも含まれてしまっている。そして、そんなふうに考えたとき、はたして私たちのなかに、他の誰でもない、まぎれもない自分自身の言動というものが、はたしてありうるのだろうか、という疑問が生じる。自分の存在、自分の思考、自分の行動、それらのすべてが、人としてあり得る範囲のものであるとするなら、私がまぎれもない私であることの意味は、はたしてどこにあるのだろうか、と。

 「アサッテ男」としての叔父の行為は、一歩間違えればただの狂人でしかない。いや、じっさいに狂人となってしまっているのかもしれないのだが、それと同じようなある種の危うさは、本書自体に対しても言える。本書はたしかに小説という形をとってはいるが、それは本当に「小説」と呼べるべきものなのか――何らかの境界線を意識し、そのぎりぎりのところを表現していこうとする作品はいくつかあるが、本書の場合、そもそもの境界線がこのうえなく見えにくい、という特徴がある。にもかかわらず、私たちは本書の存在そのものの危うさを感じずにはいられない。

 言葉の定型からの逸脱という意味では、小説というよりは、むしろ詩に近いものがある本書は、あるかどうかもわからない真相の回りを、見えもしない境界線に沿って踊り狂うようなものである。そこには、もしかしたらただ空虚ばかりが横たわっているのかもしれない――それは、ともするとこのうえなく馬鹿げた事柄のように思えるのだが、自分だけはそうではない、などと、はたして誰に言えるだろうか。私たちはあるいは、すでに「アサッテ男」のひとりとなっているのかもしれないのだ。(2010.12.10)

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