【東京創元社】
『朝霧』

北村薫著 



 私が読んだ本の感想めいたものを書き、それをホームページに載せるようになってから、そろそろ三年になる。「読んだ本はみんんな褒める」という、なんとも無謀な目標のもと、さまざまな本と接し、とにかく良いところを褒めてきたわけであるが、もちろん、すべてが順調だったわけではなく、中にはどのように褒めればいいのか見当もつかない、という本もなかったわけではない。しかし、不思議なもので、とにかく自分の身の上話でもなんでもかまわないから、つらつらと文を書きつらねていくうちに、それまで気づかなかった点を発見したり、思わぬところからその本を褒める道筋ができあがったりすることがあるのを、私はこれまでの経験から知っている。

 文章を書くという行為――自分が心に抱いている、言葉にならない想いをあえて言葉にして書くということは、たんに自分が考えていることをまとめる手助けになるだけでなく、ある意味で、無数に存在していたはずの大小さまざまな考えから、いくつかを取り出して確定してしまうことでもある。小説や詩、短歌、俳句、あるいは書評にしろ評論にしろ、それが完成する以前の段階で、表現する事柄の取捨選択というのが必ず生じるものである。そして、一度選択してしまった考えは、言葉として放ったが最後、けっして取り消すことのできない確定要素としてこの現実に影響を与えることになる。だからこそ、表現するというのは恐ろしい。

 なぜ人は、何かを表現したがるのだろうか。場合によっては、それが最悪の事態を引き起こすことにもなりかねないのに、なぜ人は自分がここにいる、この世界にたしかに存在しているということを主張せずにはいられないのだろうか。

 噺家である五代目春桜亭円紫と、女子大学生「私」との心の交流を書きつづけてきたシリーズ第5弾となる本書『朝霧』は、「山眠る」「走り来るもの」「朝霧」の3作品を収めたものであるが、「山眠る」ではかろうじて大学生だった「私」が、それ以降の作品ではついにと言うか、大学を卒業し、前作『六の宮の姫君』のときにアルバイトをしていた出版社の社員として登場するようになる。こうしたシリーズものは、ときに時代が前後したり、主人公が違っていたりする場合が多いのだが、本シリーズのように、回を重ねるたびに登場人物のたしかな成長を見るのは、たとえばたまに訪れる兄貴の家の姪っこを見るような、そんな感慨深いものがある。

 まあ、そうした感傷はひとまず置いておくとして、本書の大きな特徴としては、「私」が出版社で働くようになったことが影響しているのだろうが、いずれも小説や俳句、和歌といった文芸が謎の中心に据えられている、ということだろう。「山眠る」では主に俳句が主体となるが、そればかりでなく、暮れの大掃除で「私」は曽祖父にあたる人が翻訳したグリム童話を発見しているし、「走り来るもの」では会社の先輩に当たる天城さんの友人が書いたリドル・ストーリーの短編小説、「朝霧」では「私」の祖父がつけていた日記と、そこに記されていた暗号文が登場し、なんだか『六の宮の姫君』を彷彿とさせる雰囲気があるのだが、前作との大きな違いは、本書の短編のどれもが紙という媒体に記録された文章だということであり、それゆえに、そこには口頭での言葉以上に何らかの伝えたいこと、表現せずにはいられない、人間の激しい心の動きが刻まれている、とも言うことができるだろう。そして本書の提示する謎が、おそらくこれまでのシリーズのなかではもっともやさしく感じられるのも、その謎が隠されることを目的とするのではなく、できれば誰かに気づいてほしいと願う者によって書かれたものだからに他ならない。探偵役となる円紫師匠、そしてここ最近、自ら探偵役として謎解きをすることもある「私」の行為が、たんに謎を暴くだけ存在となりはてることなく、多くの読者に好意でもって受け入れられるのも、謎の設定に対する著者北村薫の心くばりがあればこそだろう。

 そもそも言葉というのは、情報を伝達するために、人間が発明した道具のひとつである。千年以上も昔の人が放った言葉が、短歌にしろ散文にしろ、現代に生きる私たちの手元にまで届く、そこから当時の人々の想いを読みとることができる、というのは、それが言葉の力であるとはいえ、すごいことだ。だからこそ「私」は、自分の先を行く人たちが残したもの、日本文学というものに関心を寄せ、またおぼれるようにして本を読むのだろう。今にして思えば、もし「私」が円紫師匠に出会うことがなければ、あるいは「私」は、たんに昔の人が残した想いに心を寄せるだけの文学少女でありつづけるだけだったのかもしれない。

 無数の人が私の前を歩き、様々なことを教えてくれる。私は先を行く人を、敬し、愛したい。だが、人に知識を与え、経験を与える《時》は、同時に人を蝕むものでもあるのだろう。
 辛い。

 とくに本書に限って言うなら、そこに強く感じるのは「時の流れ」だ。「私」はその日常において、しばしば自分の過去のことを振り返る機会が多くなっている。もちろん、「私」にとってもっとも大きな意味を持つ過去とは、円紫師匠と親しくなったことだろう。

 私は本シリーズの第1作『空飛ぶ馬』の書評で、円紫師匠はいったいどういう想いで「真実を「私」に提示しつづけるのか」と述べた。今、小説内の時間で6年という時が過ぎて、それでもなお本を愛し、文章というひとつの表現形式の中から、人の心を推理し、その心を慈しむことができる「私」という答えを、読者は本書の中から見出すことになるだろう。

 何かを表現すること――それは、時に人を、そして自分自身をも傷つけてしまいかねない諸刃の剣だ。だが、それでも、伝えなければ何ひとつ変わらない。そうしなければ一歩を踏み出すことができないと知ったとき、人は自分を主張する。そしてそのとき生じた心の動きは、良くも悪くも他の人を突き動かしていく。その真実こそが、「私」にとって、そして本シリーズを愛するすべての読者にとっての、かけがえのない宝であるに違いない。(2001.09.28)

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