【幻戯書房】
『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』

青柳いづみこ/川本三郎監修 



 今回紹介する本書『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』は、そのタイトルにも冠されているように、「阿佐ヶ谷会」と呼ばれた集まりについて、直接の会員だった文士たちによって書かれたエッセイや随筆、またその関係者たちへのインタビューや、会についての考察や関係資料、写真など、言うなれば「阿佐ヶ谷会」に関するあらゆる文章を集めて一冊の本にしたという力作である。今はもう解散し、その直接の関係者もすべて物故者となっている現状において、まずはよくここまでの資料を集められたものだ、という感慨が起こると同時に、いかに多くの文士たちがこの会について語ってきたか、という点で、驚くべきものがある。それは逆に言えば、彼らにとっての「阿佐ヶ谷会」というものが、それだけ親しみ深く、また自身の文学者としての活動においても影響を与えるようなものだった、ということでもある。

 「阿佐ヶ谷会」とは、作家の井伏鱒二を中心に、上林暁、青柳瑞穂、外村繁、木山捷平、太宰治、小田嶽夫など、おもに中央線沿線に居を構えていた作家たちが、互いの親睦を深めるために結成された会で、その歴史は戦前、戦中、戦後をつうじて約四十年近くにおよび、会員も出版業界人や画家、漫画家、評論家や学者など、最大で三、四十人ほどにもなったという。作家たちの集まりというと、私などがまず思い浮かべるのは「文壇」という、今では死後になりつつあるものであるが、本書を読むかぎりにおいて、たとえば作家たちがどこかのサロンに集まって激しく文学論を戦わせる、というイメージとは多少趣きの異なるものがある。というのも、阿佐ヶ谷会はもともと「阿佐ヶ谷将棋会」と称していて、戦前は文士同士がもっぱら将棋を指し、そのあとに飲み会が行なわれるというのが慣例だったからだ。

 じっさいに本書を読んでみるとわかるのだが、井伏をはじめとする阿佐ヶ谷会当初のメンバーの随筆に、将棋にかんする話はけっこう多く、誰が強くて誰が弱いか、誰がどんな指し方をするのか、その特徴や印象がこまごまと書かれている。あと多いのは酒の話、陶芸の話、あるいは武蔵野や奥多摩への遠足など、あまり文学とは関係のないことばかりをやっていたという印象を受ける。とくに酒については会員の誰もが酒豪ぞろいで、戦中や戦後まもなくの会ではいかにして酒を調達するかの苦労話などが載っているのだが、徴兵などの時代的な要素はもちろん、あまりの貧乏ゆえに妻が精神を病んだり栄養失調になったりするなど、けっこう洒落にならないほどの貧窮ぶり、逆境ぶりであることが垣間見えているにもかかわらず、阿佐ヶ谷会のことを書く彼らの筆致に、そうした悲壮感はほとんど現われてこない。

 まともな正業に就かない文士が貧乏するのは当たり前だった。文士は貧に耐える代りに、自分たちの生きる自由や意志を優先した。文士は食わねど、高楊枝だった。そういう貧乏文士が東京のはずれの、家賃の安い土地に吹き寄せられるように集まった。――(中略)――いわゆる文士村が形成された。貧しいけれど、彼らにとってそれらの地はユートピアだった。(大村彦次郎『阿佐ヶ谷会と文士村』より)

 本書のなかに書かれている阿佐ヶ谷会の印象は、ある種貧乏さえも楽しむかのような、ゆるやかでのんびりとした雰囲気だ。もちろん、それは書き手のポーズともとれるものでもあるが、それでもなお会員たちが、阿佐ヶ谷会での集まりをいかに楽しみにしていたか、という点については間違いのないものとして読み手のほうにも伝わってくる。そしてそんな雰囲気は、今の世の中では考えられないものでもある。だが逆に、そんな雰囲気こそが文学を志す者のもつべきもの、覚悟ともいうべきものであるのかもしれない、とも思う。彼らは言ってしまえばごくつぶしのようなものだ。金はないし、そもそも稼げない。にもかかわらず酒は飲む。たまに書いた小説が当たって収入が入っても、そんな生活ではまともに金が貯まりそうもないことは想像に難くない。だが、けっして世間一般の風潮に流されることなく、あくまで自分の生き方、文学を生きるという信念を貫くことをよしとした彼らは、たしかに「文士」と言うにふさわしいものがあった。

 富岡幸一郎が産経新聞に載せているコラム「断」のなかに、以下のような文章がある。「文壇は事実上消滅し、明治以降の近代小説の共通認識もなくなった」。これは、「文学界」2008年4月号に載せられた座談会「ニッポンの小説はどこへ行くのか」に対するコラムのなかで出てきた一文であるが、高橋源一郎を進行役に、古井由吉や中原昌也といった年配から、川上未映子や山崎ナオコーラといった若手までの総勢十一人の小説家が、企画特集のためとはいえ一堂に会した、という事実をふまえてのものでもある。つまり、作家同士が集まって何かをやるということ自体が、今はかぎりなく難しい時代になったということであり、そんなふうに考えたときに、かつての阿佐ヶ谷会で、文士たちが暇さえあれば将棋を何回も指したり、夜が明けるまで飲み明かしたりといったこと自体が信じられない行幸のようにも思えてくる。

 私が本書を読んで、これと近い雰囲気があるものとしてまず頭に浮かんだのが、リリー・フランキーの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の後半、著者が母を東京に呼び、ふたりで暮らしはじめた頃のエピソードだった。著者のところにはけっこういろいろな人が出入りしており、著者の母がそんな彼らに分け隔てなく自分の手料理でもてなしたという、彼女の人の好さをうかがわせるエピソードであるが、そうした海のものとも山のものとも知れない人々がリリー・フランキーの家に集まってくる、というある種の親しみの雰囲気に近いものが、あるいはかつての阿佐ヶ谷会のなかにもあったのではないか、と思うのだ。そういえば、今では「小説家」という肩書きがひとつの立派な職業として世間的にも定着しているなか、リリー・フランキーの肩書きが何なのか、何をする人なのか、いまだに定着することがない。阿佐ヶ谷会に集まった人たちも、井伏鱒二はともかくとして、いずれも小説家、文学を志す者としてはまだ無名に近い人ばかりであり、彼らもまた「何者でもない」立場にあったとも言える。

 自分のやりたいことをやる――それは簡単なようでいてこのうえなく難しいことでもある。人は社会のなかでしか生きられない。そして生きていくには金を稼ぎ、家族を養っていきなければならない。そうした社会的地位を犠牲にしてでも、なお自分がやろうと決めた文学を志した人たちを「文士」と呼び現わすのだとすれば、現代という時代における「文士」というのは、昔と比べてもっと孤独になりつつあるのかもしれない。(2008.06.25)

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