【新潮社】
『晴天の迷いクジラ』

窪美澄著 



 生涯一読書家であらんと欲する私は、ときどきこんなことを想像する。たとえば、目の前でまさに自殺しようとしている人に遭遇したとして、そのとき自分に何ができるのだろうか、と。より具体的には、自殺を思いとどまらせるために「死ぬのはこれを読んでからにしろ」と言って手渡せる本があるとしたら、それはどういった本であるべきだろうか、という想像である。これは本を読むということ、読書という行為にどれだけの可能性があるのかという、ごく個人的な思いから来ているものでもあるのだが、いまだに「これ」と自信をもって挙げることができる本を思いつくことができずにいる。

 もちろん、いくつかの候補は挙げることができる。たとえば、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』は、人間性をとことんまで否定させられる強制収容所を生き抜いたユダヤ人の手記であり、何かしら心の琴線に触れるものがあるのではないかと思うし、人間のいいかげんさを突きつけて笑わせるという意味では、『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』を勧めるのもアリだとは思っている。少なくとも、相手の関心を一時的にでも自殺から逸らすことができれば目的は達成したようなものであり、そういう意味では、本の内容というよりは、相手を説得するための言葉をどう選ぶのか、という点こそが重要になってくるのかもしれないが、それにしてもそもそも取りあげる本にそれだけの力――人の心を揺り動かすような何かがなければ、相手に投げかける言葉もまた無味乾燥なものとなってしまう。

 よくよく考えてみれば、常に生きつづけようとする肉体を、自分の手で無理やりに滅ぼそうとする自殺は、相当にエネルギーのいる行為であるし、だからこそ尋常ではない選択でもある。そして、そのような人間として尋常ではない状態にある人たちの心に、たとえば今回紹介する本書『晴天の迷いクジラ』は、どのような作用をもたらすことになるのだろうか、とふと考えてしまう。

 さっ、先延ばしにすればいいじゃないすか。どうせ死ぬんだから。ほっ、ほら、その、死にかけてるクジラ見に行ってからうちらも死にましょうよ。どうせ死ぬなら。

 上述の引用は、東京の零細デザイン会社に勤める若手デザイナーの間宮由人が、その会社の社長である中島野乃花に向かって放ったセリフの一部であるが、ふたりがこうした状況に陥った背景には、長引く不景気をどうにかしようと彼らががむしゃらに奮闘して、しかしそれでもどうにもできず、ついに倒産目前にまで追い詰められてしまったという事情がある。由人は関東地方の田舎出身で、なんとなく絵を描くのが好きだという理由でデザイン専門学校に入り、今の会社に就職したのだが、肝心の会社のほうは、どれだけ仕事をこなしても業績が上向きにならず、彼は何日も家に帰れないような仕事漬けの生活のあげく、うつ病と診断されてしまう。

 本来であれば仕事などできるはずもない精神状態でありながら、由人ばかりか数少ない社員の誰もが薬を頼りになんとか仕事をつづけているという、どう考えても尋常でない状況のなか、いよいよ会社が潰れる直前だと言われて深夜の会社にやってきた由人は、そこで練炭自殺をしようとしていた社長と鉢合わせする。本書ではこのふたりのほかに、彼らが湾内に迷い込んだというクジラを見に行く途中で拾った、篠田正子という少女の三人が主要な登場人物であり、全部で四つの章で構成されている本書のうち、最初の三章はそれぞれのそれまで歩んできた人生が綴られている。そして彼らに共通しているのは、それまでの人生において本当の自分の気持ちを押し殺すような思いをさせられたり、ショッキングな出来事の連続で精神を病んでしまったりして、心が壊れる寸前にまで追い詰められてしまった人たちだという点である。

 たとえば由人の場合、家族のなかで唯一の味方だった祖母が亡くなり、また大切にしていたはずの恋人に浮気をされたあげく、一方的に振られるというダブルパンチを食らい、心を病むまでやってきた仕事はおろか、自分の存在意義すら見失った状態にいる。いかにも強面なビジネスウーマンといった感じの野乃花は、じつは結婚も出産も経験したことのある女性であるが、その結婚も出産もけっして彼女の望んだものではなく、けっきょく子どもも家も何もかも捨てて東京に出てきてしまったという負い目を抱えている。そして篠田正子は、幼くして死んだ最初の娘に囚われるあまり、過保護で歪んだ愛情を注ぐ母親によって徐々に追い詰められ、極端な偏食とリストカットを繰り返したあげく、家から逃げ出してきたという訳あり少女である。

 追い詰められた人たち、という表現を使いはしたが、じつのところ彼らの置かれた状況は、たとえば戦場で命の危険にさらされているとか、食べるものすらない飢餓状態で苦しんでいるというわけではない。会社経営は火の車かもしれないが、会社が倒産したところでそれで人が即座に死ぬわけではないし、母親の愛情が偏っていたところで子どもが飢えるという環境でもない。だが、にもかかわらず本書の登場人物たちは、そうした危機に陥ってしまっている。三人が三人とも精神的に切羽詰っているせいで、そもそも「自殺する前にクジラを見に行く」という、なんとも奇天烈な発想に突っ込みを入れることもできずにいる。そう、本書のあらすじをまとめるなら、死ぬために死にそうになっているクジラを見に行く話、ということになってしまう。だが、こうした簡易な説明だけではけっして捉えることのできないものが、本書にはある。

 この国はおかしくないか。という、うすらぼんやりと生きてきた自分が今まで抱えたことのない、そんな疑問が生まれてきたことすら、もしかしたら気持ちを上向きにするというこの薬の影響かもしれなくて、そう思うと、コールタールのような黒く粘ついた液体状の異物が自分の脳のなかにぷつぷつと生まれているような気がした。

 あきらかに何かおかしなことが起こっているのに、そのことに心が何の反応もしない――私たちはふだんの生活のなかで、それこそ日々の平凡な日常をつつがなく送っていると思い込んでいるが、じつは私たちの心が無自覚にそうした異常を異常と思う心を閉ざしているだけで、本当の現実には尋常ではない出来事がたくさん生じているのではないか、と本書を読むとふと思うことがある。たとえば、日本で年間三万人もの自殺者があること、人身事故で電車が遅延し、しかもそのことがなかば「またか」と思うような日常レベルになってしまっていること――ひょっとすると、現代という時代において由人や野乃花、正子のように精神に異常を来たしてしまうことのほうが、よほど正常な反応なのかもしれないのだ。そして、そんなふうに考えたとき、たんなるテレビのニュースでしかなかった迷いクジラに、まさに自殺しようとしていた由人たちが反応を示したことの意味が見えてくることになる。

 本書が突きつけてくるテーマは、容易に答えの見つからないたぐいのものだ。考えては迷い、けっきょく同じところをぐるぐると回っているだけで、考えれば考えるだけ苦しくなるだけなのかもしれない。だが、生きているからこそ苦しく、また迷うこともできると言うこともできる。湾の浅瀬に迷いこんだクジラに対して、陸に住む人間たちがとるべきもっとも最適な方法は何なのか、そして目の前で自殺しようとしている人を見つけたときに、自分に何ができるのか――それを考え続けることが、あるいは生きるということなのかもしれない。(2014.07.18)

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