【講談社】
『アルキメデスは手を汚さない』

小峰元著 



 夢や理想を高く持ちつづけるのはけっして悪いことではないが、それらを本当に実現したいと望むのであれば、まぎれもない現実をきちんと把握することが何よりも重要だということを忘れてはならない。なぜなら高潔な夢や理想というものは、しばしばその実現不可能性ゆえに、ともすると机上の空論としてもてあそぶだけで満足してしまうという側面をもっているからだ。だが、それだけであればまだ可愛いほうだと言えるだろう。本当にやっかいなのは、そうした夢や理想の実現のためと称して、現実を見据えないままに引き起こされる行動や決定にこそある。

 たとえば、いわゆる「言葉狩り」の問題。ある特定の言葉遣いについて、身体障害や知的障害を患う少数者の差別を増長するとしてその使用を禁止することを指すものであるが、こうした現実の社会的規制の方向性に対してどこかズレているように感じられるのは、その方向性を推進している個人なり団体なりの中心に、高潔な理想や夢が据えられているところにある。「弱者の人権を守る」という旗錦がまさにそれであるが、それはまぎれもない高潔な理想であるがゆえに、文句をつけることがこのうえなく難しいものがある。「言葉狩り」という表現自体、その高潔な理想と、現実として引き起こされている表現規制の方向性との乖離を揶揄する意図があるが、こうした乖離現象は、たとえば自然保護と称して過激な行動をとる団体をはじめ、世のなかにいくらでも見受けられる。

 もし、世のなかのすべての不正がきちんと罰され、冤罪などの誤謬もただちに修正されるような仕組みが存在するなら、それはまさに理想の社会となるだろう。だがそうなった瞬間、警察も司法もその存在意義を失うことになる。それは、個々が何をもって正しいとするか、あるいは何をもって間違いとするかを判断する思考を放棄することにも等しいし、また極端な話、個人が個人であることを規制するような社会にもなりかねないことを意味する。本書『アルキメデスは手を汚さない』のなかで起こった一連の事件とその真相は、私にとって理想と現実のギャップというものを強く意識させるものだった。

「判りませんか。あなたは法さえ守れば、太陽だって買えると思い上がっている。愛情なんかなくったって、金で女が買えるようにね。買われた人間が、どんな気持でいるか、考えてもみない人だと言ってるんですよ」

 本書の冒頭は、ある少女の葬式のシーンからはじまる。死者は豊能高校二年の柴本美雪。盲腸手術の失敗で若い命を落としたということであるが、彼女と同じクラスメイトのあいだでは、彼女の死が妊娠中絶の失敗によるものだという噂が流れていた。その噂の発生した時期に疑問をいだいた美雪の父親は、娘を孕ませた相手が同級生の誰かであると見当をつけ、担任の許可を得たうえで、クラスメイトたちを美雪の初七日の法要の席にまねき、それとなく情報を引き出そうとしたが、クラスメイトたちはその意図をあっさり見破ったばかりでなく、彼の営む建築会社のあこぎなやり口を頭から非難するような態度を示しはじめた。それを象徴するのが上述の引用であるが、ここで注目すべきなのは、この一連のシーンが、美雪の父親やクラスの担任といった大人たちと、美雪のクラスメイトである高校生とのあいだに横たわる、お互いがお互いを理解しがたいものと感じさせる溝を強調しているという点である。

 柴本美雪は、妊娠させた相手を死ぬまで口にせず、代わりに「アルキメデス」という謎の言葉を残した。本書冒頭こそ、こうした謎もふくめ、結果として娘を死なせた相手を探し出そうとする父親のほうにやや同情的な書かれかたがされているのだが、本書を読み進めていくと、それがある側面だけに偏ったものの見方であることを認めずにはいられなくなる。物語はその後、豊能高校で生徒の弁当のなかに砒素が混入され、それを食べた柳生隆保という生徒が倒れるという事件が起き、そこから警察が介入することになるのだが、その中心人物となる巡査部長の野村恒男もまた、生徒たちが弁当を競売にかけるという行為について、自分たちには理解しがたいものを感じとっている。

 本書では結果として、三つの事件が起こる。美雪の死と、隆保の中毒、そしてもうひとつ、会社員である亀井正和の失踪の三つだ。じつはこの亀井正和は、妻子ある身でありながら隆保の姉と不倫関係にある男であり、野村はこの三つの事件のすべてに柳生隆保が何らかの形でかかわっていることまでは突き止めるものの、その事件間の因果関係まではその時点では見えていない。むしろ、その因果関係の謎を解くことこそが、本書のミステリーとしての命題となってくるわけだが、その謎のなかに、美雪の父や野村といった世代とその子どもたちの世代との断絶といった普遍的問題を絡めている点も、本書を大きく特徴づけているもののひとつである。

 いっけん無関係のように思える事件が次々と起こり、それらが警察の捜査によってさらに別の側面を見せたり急展開したりといったエンターテイメント的要素はもちろんのこと、密室殺人や鉄道ダイヤによるアリバイ工作といった典型的ミステリーのトリックをふんだんに取り込んだ本書は、それだけでも読み応えのある作品として仕上がっているが、それ以上に面白いのは、本書のもつ時代性である。本書は第19回江戸川乱歩賞受賞作であり、その舞台は一九七〇年はじめ頃という設定となっている。そしてその時代においてもっともセンセーショナルだったものといえば、連合赤軍による浅間山荘立てこもり事件であり、その事件の終結は、同時に日本じゅうを席巻していた学生運動の終結を意味するものでもあった。

「いまに君が高校生の息子を持つようになったら判るさ。やつらが何を考えているやら、俺たちには見当もつかない。毎日の新聞を見てみろ。やつらがやることに俺たちは度肝を抜かれっ放しだ。ところが、やつらは俺たちの考えそうなことは先刻見通してるんだ。」

 当時の学生運動について、私は多くを語れる立場にあるわけではない。だが、たとえば日本赤軍幹部のひとりである重信房子の書いた『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』などを読むと、彼らがきわめて崇高な理想の実現のために、現実へのアプローチとしての闘争を繰り広げていたことは伝わってくる。そしてここで見えてくるものがあるとすれば、理念として正しいことをごり押しすることが、かならずしも世のなかにとっての「いいこと」とつながるわけではない、ということである。物語が進むにつれて見えてくる犯人像について、当初こそ野村は「世代の断絶」といった紋切り型の認識をもっていたものの、次第にその認識は別のものへと切り替えられていく。それは、若い者たちがともすると抱きがちな潔癖なまでの理想論――社会の荒波にさらされていないがゆえの純粋さと、それゆえの危うさである。

 理想を追求するという姿勢は、あるいは若さゆえの特権というべきものがある。だが、たんに理想だけを追い求めていくだけでは、それこそ浅間山荘事件のような大きな悲劇をまねくことになりかねない。「正しいこと」と「いいこと」とは、かならずしもイコールで結びつくものではない――その事実に気づいたとき、はじめて本書のタイトルにこめられた意味の深さを、読者はあらためて知ることになる。まだ大人になりきれない少年少女たちが指し示す真相を、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.03.20)

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