【新潮文庫】
『アクアリウム』

篠田節子著 



 孤独を背負ったひとりの人間と、一匹の動物との心のふれあいを描いた物語は、古今東西を問わず世界じゅうに数多く存在し、今もなお映画や小説など物語の題材として繰り返し焼き増しされている。私などはこういった話が大好きなので、多少ひいき目もあるかもしれないが、それでも、このパターンの物語が手を変え品を変えて長いあいだ使われつづけているのは、それだけ多くの人に親しまれているからに他ならない。ちょうど、日本人の多くが「水戸黄門」の話の筋をほぼ完璧に予想できるにもかかわらず、「こらしめてやりなさい」ではじまる殺陣と、「控えおろう」とともに印籠を見せるあの瞬間見たさにテレビをつけるのと似ている。

 本書『アクアリウム』もまた、そんな数多くの物語のなかのひとつに数えられる。奥多摩の奥深く、イヌブナの原生林の下にある地底湖。大昔の鍾乳洞が水没してできたその地底湖で奇妙な魚を見た、と言っていた純一は、二度目のダイビングのさいに、迷路のような横穴に入り込んで二度と出てくることはなかった。純一を探してほしい、という彼の恋人である澪の願いで地底湖に潜ることになった正人は、純一の言っていた「奇妙な魚」と遭遇する。退化した目、血管や内臓が透けて見えるほど脱色した皮膚といった、洞窟性生物の特徴を備えたそれは、しかしイルカやクジラ以上に高度な知能を持つ水棲哺乳類の一種であると正人は悟る。こちらの心の動きを敏感に読み取り、直感と視覚イメージでコミュニケーションをするその生物(正人はイクティと名前をつける)との幻想的な精神交流を経て、正人は徐々にイクティに心魅かれていく。

 いっさいの光の届かない、閉ざされた暗黒世界のなか、何十年ものあいだたったひとりで生きてきたイクティの孤独、そして、人とうまくうちとけることのできない正人の孤独。このふたつの孤独は、物語のなかで常にきれいなコントラストを成している。滅びゆく種の最後の生き残りであるイクティの孤独が生物的、物質的な孤独であるのに対し、正人の孤独は、地上が人間という種で溢れかえっているがために生まれる、精神的な孤独である。澪といっしょにいるときも、また、林道建設に対する反対運動のなかにいるときも、正人の気持ちはちっとも他人には届かない。人の心はバラバラで、それぞれの価値観のために他人を利用することしか考えない人間の身勝手さにまのあたりにするたびに、正人の心は地底湖をゆるやかに泳ぐイクティのほうへと飛んでいく。

 正人は、人間として生まれた不完全さを思った。人を駆り立てていく、様々な欲望と挫折感、それから今までの人生を彩ってきた不安や悲しみを思った。自分の内に欠落した部分を埋めるために、ある者は恋に、ある者は勝利にみつけ、衝かれたように人生を駆け抜けていく。
 しかしイクティは、彼女の仲間は、生の中に、何か人とは異なるものをみつけたのだろう。

 林道建設によって、イクティの住む地底湖は徐々に汚されていく。正人はなんとかイクティを助けだそうと奔走する。だが、正人のそのような考えもまた、人間の身勝手さを象徴するものだということに、はたして気がついているのだろうか。人間の見ている世界だけがすべてではないこと――食物連鎖による生命の死と再生は自然の営みであり、どんな生物もその摂理から逃れることはできないこと、そして、その事実を静かに受け入れること――人間以外の生物が認識しているあまりにも明白な真実を、イクティは伝えたかったのではないかと思う。

 自分の手で小さな世界を創造できるアクアリウムはたしかに美しい。だが、それはけっして自然な姿ではない。今はまだ無理かもしれない。だが、正人にもいつかそのことを理解する日がくることを信じたい。(1998.12.15)

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