【東京創元社】
『サマー・アポカリプス』

笠井潔著 



 たとえば、殺さなければ殺される、というある意味究極の状況に陥ったときに、はたして私たちはその相手を本当に殺してしまうのだろうか、ということを考えてみる。むろん、時間をかけて相手を説得する、などという選択肢もあるかもしれないが、世の中には何かを深く考える時間さえ許されない、その刹那にすべてを決めなければならない状況というのも、たしかに存在する。これは、そんな状況のことである。

 誰かを殺すということは、その相手にあったはずの無限の可能性を永遠に閉じてしまうという意味で、けっして取り返しのつかないことをしてしまうことであり、許されていい行為ではありえない。だが、その相手の行為によって、他ならぬ自身の未来の可能性が閉ざされてしまうのであれば、何より自身のたったひとつしかない命を守るために、不本意ながら相手を殺してしまうことは、やはりありえることかもしれない、とおそらく誰もが考えることだろう。しかし、それでもなお、自分が他人を殺した、という事実は確実に残る。たとえ、それが正当防衛であり、法が無罪であると判断したとしても、である。そしてその事実は、もしかしたら別の誰かの憎悪を、ひどくかき立ててしまう行為につながるものであるのかもしれないのだ。

 暴力に暴力で対抗し、憎悪に憎悪をもって報復する。そしてそれらの暴力や憎悪が、さらに別の暴力や憎悪を生んでいく、という底知れぬ悪循環――悲しいことに、人間の歴史はしばしばこのような負の連鎖によって突き動かされていく場合が非常に多かったりするのだが、このときに、はたして本当の悪はどこにあったのか、そもそも何が悪かったから、限りない負の連鎖がつづいていくのかを考えるのは難しい。以前に読んだ、伊坂幸太郎の『魔王』のなかで、日本の憲法改正に手をかけようとするカリスマ政治家の存在が、もしかすると日本という国を侵略戦争への道に引きずり込む第一歩になるかもしれないことを示唆する場面が出てくるが、たとえばそれが確実だとわかったときに、では「未来の日本を守るため」という「正義」の名のもとに、その政治家を暗殺することは、はたして真実の正義と言えるのだろうか。

 本書『サマー・アポカリプス』は、『バイバイ、エンジェル』からはじまる現象学探偵・矢吹駆シリーズの第二弾にあたる作品であり、前作で起こったラルース家の連続殺人事件で噴出した「観念的殺人」に対する、矢吹駆の思想的な対決姿勢が見えてくる作品として位置づけることができる。

「いや、かつてナチ的なものを動かしたのと同じ暗闇の力が、彼らの背後で動いていた、といいたいんだ。――(中略)――僕はただ、そこに、霊的な闘争があったことだけを君に知らせておきたい。その暗闇の力に、僕は……挑戦しなければならなかった」

 不吉なほどの酷熱に支配された夏のパリで、突如矢吹駆を襲った銃弾――カタリ派と、その最後の拠点といわれた南仏のモンセギュールの遺跡に並々ならぬ執着を見せる彼とともに、その権威である助教授の助言を仰ぐため南仏を訪れることになったナディアは、その助教授の滞在先である資産家ロシュフォール家の屋敷で殺人事件に巻き込まれる。それは、ヨハネの黙示録をモチーフとした見立て殺人であり、同時に来るべき連続殺人を示唆するものでもあった……。

 不吉な予告状、二度殺された死体、密室トリック、見立て殺人、そして失われた文書とカタリ派の秘宝――今回も、ミステリーとしての要素を数多くちりばめた連続殺人事件が起こり、また例によって推理小説好きのナディアが素人探偵よろしく今回の事件に挑戦し、しかもその推理がいかにもな「見立て殺人」という要素ゆえに、事件の真相とは見当はずれのものとなっていく、という構図も前回と同様である。ただ、南仏行きの本来の目的にしか興味を示そうとしない矢吹駆は今回、ロシュフォールの娘の婚約者だという青年であり、ナディアと同じようににわか探偵を名乗るジュリアンに探偵の座をあっさりと明け渡してしまう。「彼が事件を解決する。これはそんな殺人事件なんだ」という謎めいた言葉とともに。

 本書を読んでいくとわかるのだが、今回の連続殺人事件の概要や、その展開の仕方などは、いかにも昔の推理小説にありがちな雰囲気をもっており、けっして何か目新しいものがあるわけではない。それどころか、本書のメインテーマは、ロシュフォール家で起きた見立て殺人そのものにあるわけではない。読者は当然のことながら、矢吹駆という名探偵が事件の真相をすべてあきらかにしてくれることを期待しているのであり、そういう意味では矢吹駆こそが本書のメインだと言うことができる。では、矢吹駆は今回の事件について何を考えているのか、いや、今回の事件をもとに、何を成し遂げようとしているのか。そこには、前作からつづく彼の思想上の問題が深くかかわっている。それは、何をもって「悪」と判断するのかという命題と、その「悪」を断ち切るために、何をなすべきなのか、という命題である。

 推理小説における探偵役となる人物は、たしかに殺人事件を解決し、その真犯人をつきとめるという役割を負っている。しかし、彼らはけっして正義の体現者ではない。そもそも、殺人事件が起きてしまった時点で、殺された人は絶対に生き返ることがなく、それは間違いなく取り返しのつかないことなのだ。だからこそ、探偵というのはきわめて主観的でありうる善悪を判断する者でも、ましてや犯罪者の弾劾者でもなく、ただ物事の真実を追究する者としてそこにある。

 だが、矢吹駆という探偵は、そこにあえて善悪の観念を差し挟もうとする。それも、おそらく主観的な感情論としての善悪ではなく、もっと高次の、絶対的な意味での「善悪」の観念である。現象学という物事の見方の体現者であり、それゆえに世間一般の価値判断とはまったく別の次元で物事を判断し、真相にいたる直観の持ち主でもある矢吹駆は、ほかならぬその善悪の判断のために深く思い悩む者でもある。今回の事件において、裏で糸を引く得体の知れない秘密結社のような存在が浮かび上がり、シリーズ全体をつうじてその組織と矢吹駆との思想的対決という図式が見えてくる本書であるが、見事なのは、単純な善悪の対決という形を、たとえばキリスト教教会におけるカタリ派の弾圧、あるいはナチスによるユダヤ人弾圧といった、過去の歴史をふまえた、人類が引きずらずにはいられなかった限りない悪の連鎖と結びつけることによって、一種の壮大な物語の片鱗として読者の前に提示した、という点である。

 だが、今回の連続殺人事件の裏で行なわれていた矢吹駆と真の敵との思想的対決は、どちらも表層としての連続殺人事件を、あくまでそれ以外の――あるいはその個人にとってはそれ以上の――目的のために利用した、という点で、じつは同じ立場に立っておこなわれたものにすぎないのだ。もし違いがあるとすれば、それは自身が悪であるか、あるいは善であるかをどれだけ自覚しているか、という点のみであり、そこにはまだきわめて脆弱な観念が横たわっているにすぎない。まだまだ未分化な善悪の立脚点が、どれだけはっきりとした形となるのか――あるいはならないのかが、本シリーズのこれからのテーマとなってくるに違いない。

 被害者はときにこのうえなくやっかいな加害者に変貌し、権力はつかんだとたん、かならず腐敗への道を歩みはじめる。善をなさんがために振るった力が、いつのまにか悪への加担にすりかわってしまうこの負の連鎖――本書はたしかにミステリーではあるが、それ以上に深いテーマをたしかに秘めている。(2006.10.16)

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