【光文社】
『アップフェルラント物語』

田中芳樹著 



 たとえば、力の弱い者が力の強い者と戦わなければならない状況が発生したとする。
 本来であれば、そうした状況を引き起こすことのないよう、用心深く生きていくのが、この社会における力無き者の賢い生き方であろうが、賢く生きるということと、ひとりの人間として正しく生きていくということとが、必ずしも一致するわけではないこともまた、世のならいだと言える。ちょうど、「力こそが正義」という方程式が、大きな間違いであることを知っていながら、そうした判断をしばしば曇らせてしまうのが、強大な力――直接的な暴力から、財力、権力といったものを含めて――の持つ魔の側面である、ということと同じように。

 力に対して力で対抗するのは、たやすい。科学の進歩がさらにそれを容易にしたことは、アメリカ社会の力無き者たちが、自分の身を守るためにまず手に入れようとするものが銃であるという事実を挙げれば充分だろう。だからこそ、もし強大な力を相手に、同じ力ではなく、知恵と勇気をもって立ち向かい、勝利することができたとしたら、それが現実世界においては一種の奇跡であるだけに、さぞかし胸のすくような思いがするに違いない。

 本書『アップフェルラント物語』に登場するヴェルことヴェルギール・シュトラウスは14歳の孤児で、ちょっとした手先の器用さ(スリの技術)以外には何の後ろ盾も力もない、身ひとつの少年であるが、そんな少年が悪漢たちの手からとらわれの女の子を救い出し、さらには王国の危機をふせぐ手助けまでしてしまう、という意味では、まさに「胸のすくような」物語のもっとも典型的な形を踏襲した作品だと言ってもいいだろう。ただし、ここで私が用いた「典型的」という表現は、けっして「ありがちな」といったネガティブな意味と混同されるものではない。

 エンターテイメントの分野において、現在星の数ほど生み出されている物語の大部分が、かつて作られた物語の使いまわしでしかない、というのは周知のことであるし、読者もまた、たとえば悪が勝ってしまうような「裏切り」を望んで作品に接するわけでもない。そういう意味で、エンターテイメント作家は読者の期待を裏切ってはならないのは当然のこととして、そこからさらに一歩進んで、作品の良し悪しを決める基準のひとつとなるものがあるとすれば、それは物語をいかに演出するか、ということになるだろう。

 本書の舞台となるアップフェルラント王国は、著者自身が生み出した架空の王国であるが、世界設定そのものは20世紀初頭のヨーロッパという、実在の歴史や国を用いている。アップフェルラント王国は、風光明媚なだけがとりえののどかな山国であり、その国力は他のヨーロッパ列強に遠くおよばず、しかもドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーという当時の三大帝国の角逐する地理的要地にあり、常に隣国からの侵略の脅威にさらされている国でもある。

 そう、力だけでは到底かなわない大人を相手に、力ではなく知恵と勇気をふりしぼって立ち向かっていくヴェルの姿は、そのままアップフェルラント王国の姿でもあるのだ。20世紀初頭といえば、ベル・エポック(良き時代)と呼ばれるいっぽうで、欧米列強が植民地を求めて世界じゅうを蹂躙していった弱肉強食の時代、弱い者たちは成すすべもなく踏みつけにされていく時代である。そんな大国のやり方を模倣し、同じように力を行使していくことを潔しとせず、小国なりの誇りをもって独立を保っていこうとする女王カロリーナや、総理大臣ボイストらの態度は、「力こそが正義」という、単純なパワーゲームの時代に対する異議申立てであり、だからこそ、小さな少年少女と、小さな王国が、互いの欠けているものをおぎないあうようにして、強大な力に屈することなく、逆に手玉にとってしまう痛快さは、格別なものがあるだろう。

「たいへん? いえいえ、おもしろいですよ。軍事力さえあれば何をやってもいいと思いこんでいる列強とか大国とかを、ぎゃふんといわせるのが、小国の心意気ってものですものねえ」
 むろん女王は知っている。知謀のともなわない心意気は、多くの場合、害になるということを。だがまた、心意気のともなわない知謀は、単なる狡猾さにおちいるということもたしかである。

 女王のこの言葉にある「心意気」とは、そのまま「勇気」と置きかえられるものだろう。私は先に「知恵と勇気」という言葉を何度か使ったが、ヴェルや、彼が救い出す少女フリーダには、たしかに充分な勇気があった。だが、まだ子どもであるがゆえの経験や知恵の不足はいかんともしがたいものがあったことは認めなければなるまい。じっさい、力押しの悪漢たちはともかく、今回の事件の首謀者とも言えるアリアーナに対して、ヴェル個人の勇気はほぼ惨敗に終わっている。しかし、それでもヴェルたちが最後に勝利することができたのは、彼の不屈の意志もさることながら、そんなヴェルの心意気を信じ、あたたかい目で見守っていたフライシャー警部をはじめとする、アップフェルラントの大人たちの手助けがあったからに他ならない。
 いっぽう、ドイツ軍侵攻という国の危機を回避することができたのは、もちろん女王の「奥の手」があったからこそであるが、逆にヴェルたちの勇気がなければ、それを使う暇さえなかったかもしれないのだ。

 若者の勇気と、大人の知恵との結びつき――本書がたんに「ありがちな」物語で終わらないのは、こうした著者の明確なテーマ性と、そのテーマを最大に引き出すための舞台演出があったからこそである。そして、そういう意味では、滅ぼされた国ポーランドの人間であるアリアーナが、「勇気」ではなくブラジル猫という「力」を持っていた、というのもまた象徴的だ。彼女がヴェルたちのもつ勇気に触発され、どう変化していくのかも、本書の大きな読みどころかもしれない。

 1890年から第1次世界大戦までの時代を指し示す「ベル・エポック」という言葉は、けっきょくのところ列強たちの一方的なものの見方が生み出した虚構でしかなかった。この『アップフェルラント物語』は、著者の理想とする真の「ベル・エポック」を虚構のなかで完成させることで、現実のなかの虚構に対する異議申立てを――著者なりの「心意気」を示そうとしたのかもしれない。(2002.04.03)

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