【新潮社】
『青猫屋』

城戸光子著 



 本書の舞台となる町の人々にとって、歌というのは特別な存在であるようだ。歌好きな町の人々によって作られ唄われた歌は「歌ぶり」と呼ばれ、その歌が優れたものであればあるほど創作者の手を離れ、多くの人に永く愛唱されていく。それは、歌が独自の魂を持って生き続けていく、ということを意味するのである。

 本書『青猫屋』で書かれているのは、歌が大きな力を持ち、その力がそこに住む人々の生活の隅々に浸透している世界である。たとえば、「歌ぶり」を聞かせて育った野菜が自立心と誇りを持ち、客に噛みついたりする。また、ある女が川に捨てた歌を、浮き島の渡し守が拾い上げ、手当てをして救ったりもする。それゆえに、時として特定の人や家族を傷つけてしまう歌が生まれてしまうことも、当たり前のこととして起こる世界――そこで登場するのが「歌瘤士」という職業。歌瘤士は「瘤抜き」という独特の技術でもって、悪意のある歌を必殺仕事人よろしく抹殺する、歌の殺し屋なのである。
 その青猫屋四代目当主である廉ニ郎のところに、「歌ぶり」の名手であるツバ老がやってきて、四十八年前に先代に頼んでいた、ツバ老とお時の歌合戦の判定をしてもらいたいと催促する。先代はふたりの歌合戦に立ち会い、四十八年後に判定すると約束していたのだという。ところが、ツバ老が唄った「ムサ小間」は有名な歌なのだが、お時がそのとき唄った歌が見つからない。判定を引き受けた廉ニ郎は、お時が唄ったという歌を探しはじめるが……。

 本書には、「歌瘤士」でありながらふだんはなぜかキツネの置物ばかり作っている廉ニ郎のほかにも、その弟子でありながら歌を唄えない頓痴気、ビニールハウスのなかで歌ぶり教室を開き、元気すぎる野菜を育てる朝比奈夫妻や、ドライブイン食堂であるにもかかわらず百科事典なみの厚さのあるメニュー(しかもほとんどがデザート)を出す店主など、じつにユニークな登場人物、また、蝙蝠魚や山羊そっくりでありながら山羊ではない「ヤギ」など、奇妙な生き物が数多く登場する。それらのキャラクターが、本書『青猫屋』の独特な世界の雰囲気をかもし出すのに一役買っているのは間違いないのだが、もちろん、それだけのために存在するわけではない。本書を読みすすめていくと、お時の歌の正体、そしてツバ老とお時との歌合戦の判定という、廉ニ郎を中心とした物語の主要な流れとは別に、廉ニ郎以外の登場人物たちによる複数の物語が並行して進行しているのがわかる。これら脇役とも言えそうな小さな物語、一見すると歌合戦という主要な物語の流れとはまったく関係なさそうなのだが、それらのすべてが実は贋稲荷の祭――歌合戦からちょうど四十八年後の日――という一点に向かって集約していくのだ。すべての流れが一点でまじわったとき、いったい何が起こるのか、そしてお時が唄った、短くも苛烈だったと評される歌の正体は――このふたつの謎を考えるとき、私でなくとも「お時の歌に関する何かが、その時点で起こるはずだ」と期待せずにはいられなくなる。

 おばけちょうちんやおばけ傘、また猫又や妖狐のたぐいなど、昔から日本には物であれ動物であれ、年経たものは特別な力を持った妖怪に変化する、という思想がある。人々に永く愛唱された歌ぶり――「立派な魂を持つ歌は、どれほど変貌を遂げようともその歌そのものであり続ける」という歌ぶりに対する本書の世界の考え方は、日本の妖怪に対する考え方と非常によく似たものを感じる。本書『青猫屋』を読んで、ふとなつかしさを感じる人がいるとすれば、それは古き良き時代の日本の雰囲気と似たものを、その底流に感じるからであろう。(1999.03.05)

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