【河出書房新社】
『青色賛歌』

丹下健太著 
第44回文藝賞受賞作 



 人はいつ自分が「大人」であることを自覚するのだろうか、とふと考えることがある。

 たとえば日本の法律的には、満20歳になった時点で大人だということになっている。基本的には、自分の言動に責任を持つことができると見なされる年齢――罪を犯せば否応なく自分が罰せられる、という意味では、20歳以上は大人という切り分けは、きわめて明確な切り口だと言えるが、親のすねをかじって大学生活を満喫しているモラトリアムな20歳以上の学生が、真の意味で「大人」だと言えるのかどうかは疑問の残るところではある。

 自分の技量で生活費を稼ぐことができれば大人ということなのか、それとも誰かと結婚し、自分だけの家庭をもつことができた時点で大人になるのか――切り口はいろいろと思い当たるものの、そのいずれをとってもしっくりこないものを感じてしまうのは、けっきょくのところ「大人」と「子ども」の境界線が多分に社会的な切り口でしかない、ということに尽きる。私自身のことを例にとってみても、それなりに歳を食ったという思いはあるものの、では自分が本当に一人前の大人なのか、という命題にはっきり「そうだ」と答えることができるかどうか、正直なところよくわからなかったりする。

「お前もそこにいるだろうが。あっちもこっちもそっちもどっちも同じだろ。所詮こことそことの違いだろ。偉そうに。そんな遠くにゃ誰もいけねーよ」

 本書『青色賛歌』において、キーワードとなる単語があるとすれば、それは「あちら」と「こちら」というきわめて抽象的な、しかしきわめて対照的な位置づけをもつ言葉である。自分が今いる場所が「こちら」であるとすれば、自分が今いない場所が「あちら」――本書に登場する高橋渡は、大学卒業後どこかに就職するわけでもなく、ここ何年かフリーターを続けている身であったが、現在就職先を探して活動中という意味では、完全にフリーターというわけでもない。つまり、本書における「こちら」と「あちら」とは、フリーターとして自由気ままに、しかしほとんど何の保障もない生活をつづけることと、どこかの会社に就職して月々安定した給料をもらう代わりに、きわめて不自由な生活をつづけること、という意味合いをもっている。そして彼は現在、心情的に「こちら」でもなければ「あちら」でもない、きわめてあいまいな境界線の上にいると言うことができる。

 ある何かと別の何かを区別する境界線という高橋の立ち位置は、何も就職のことだけではない。たとえば彼は、半年前からめぐみという女性と同棲していて、言ってみれば高橋の恋人ということになるのだが、二ヶ月くらい前からセックスレスがつづいていて、恋人どうしというよりは、ただたんに一緒に住んでいるだけ、という雰囲気となっている。そして彼らふたりが今後結婚するのかどうかは、それこそ曖昧なままである。

 本書はそんな曖昧な立場にいる高橋が、就職先を求めて面接の練習をしたり履歴書を書いたりと活動はするものの、なかなか採用通知を手にすることができずにいる様子を淡々と書きつづった作品だと言えるが、たとえば面接のさいの笑顔をつくるために、割り箸を口に挟んで声を出す練習をしたりと、彼の努力の方向性がどこかズレているところが滑稽であり、それが本書の特長のひとつとなっている。本来であれば、自分が社会に出て何をやりたいのか、あるいは自分に何ができるのかを考えるべきなのだろうが、高橋の場合、とにかくどこかに就職できればいい、という考えでいるらしいことが本書を読み進めていくとわかってくる。しかも、どうしても就職したいという切迫感や熱意といったものが今ひとつ欠けており、それゆえに彼がどこまで本気なのかもよく見えなかったりする。

 じつのところ、高橋が就職できるかどうかということは本書を語るうえでは瑣末なことであるし、またその過程で何か重要なものを見つけたり手にしたりするという見せどころがあるわけでもない。じっさい、本書のなかで高橋はそんなものを手に入れたりはしない。重要なのは、彼がフリーターでもなければサラリーマンでもない、というどっちつかずの立場にいることである。そして、そんな彼をとり巻くようにして、「こちら」側の人間や「あちら」側の人間が登場し、それぞれのもつちょっとした物語を匂わせていく。

 たとえば、学生時代の友人である設楽はフリーターではあるが、とあるネット事業で月に三十万くらいの稼ぎがあるという。いっぽうで高橋が猫探しの過程で出会うことになる大西という男はサラリーマンではあるが、会社の金を横領して指名手配になってしまう。高橋の視点において、どちらが良いとか悪いとかいう価値判断はない。どっちつかずの境界線にいるからこそ、それぞれのあり様を偏見や思い込みのない目で見ることができる。そしてそれは、ある人間を「フリーター」とか「サラリーマン」とかいった、抽象的で多くのものを一緒くたにしてしまうのではなく、まぎれもない生きた人間としてとらえることができる、ということでもある。本書における高橋の立ち位置は、そのためにこそある。

 社会情勢の変化とともに、働くということについて、かならずしもどこかの企業に就職しなければならない、という価値観はすでに揺らぎつつある。日々を生活していくだけの金を稼ぐことができるのであれば、就職するしないのこだわりなど意味がないという考えもあるし、どんなに一流の企業に就職できたとしても、それがそのまま将来安泰ということにつながるわけでもないことを、私たちはよく知っている。そしてそれは、高橋にしても同様だろう。とくに設楽については、高橋にネット事業を手伝わないかと誘ってさえいるのだが、しかし高橋はあくまで就職活動をつづけようとする。

 高橋にとっての就職とは、あいまいな境界線上にいることへのひとつの区切りでもある。そしてそうした区切りは、彼の就職活動を中心にさまざまな場面で起こってくる。探していた猫の行方や、めぐみが収集している石のこと――怪我をした傷がいつかはふさがっていくように、いつまでも何かと何かの境界線上にいることは難しい。人はいずれ、何かをはっきりとさせたり、何かを選びとらなければならない時がある。そしてそうした区切りが、いくつもの物語を想起させる。その奥行きの深さ――いかにもそれぞれの物語があるのだという作品の深みこそが、本書の巧みなところでもある。

 この物語のなかで、何かが劇的に変わるわけではない。むしろ、その変化はごくごくささやかなものでしかないのだが、そうした小さな変化や、ちょっとしたことへの区切りというものを大切にしていきたい、という意思が本書にはたしかにある。私たちはけっきょくのところ、そうしたものの積み重ねによってしか本当の意味で成長していくことができないし、逆に言えば、その積み重ねこそが、いつしか私たちを一人前の「大人」へと変えていくのかもしれない。(2010.07.02)

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