【幻冬舎】
『アンテナ』

田口ランディ著 

背景色設定:

 たとえば、精子の話でもしようか。
 正確な数字は忘れてしまったが、一回の射精で放出される精子の数は、それこそ千や万の単位で数えられるようなものではないらしい。しかも、精子はすべてが同一のはたらきを持っているわけではなく、自分とは異なる遺伝子情報を持つ他者の精子を攻撃する役目をもったものや、後からやってくる他者の精子が奥に進めないよう、通路をふさぐ役目をもったものなど、それぞれが役割分担をしながら、全体として受精をめざして突き進んでいく、という話を、いつか見たテレビ番組で知った。

 他の遺伝子情報を持つ精子との生存競争を勝ち抜き、はるか過去から延々と受け継いできたものを確実に後世へと伝えようとする、生物の「種の保存」にかけられる狂おしいまでのエネルギー ――それが、私という人間にも備わっている、という事実は、大きな驚きであると同時に、大きな戸惑いを引き起こすものでもある。なぜなら、このことが意味するのは、人間の生殖行為が、そもそも複数の敵がいて競争することを前提としているものだからである。男は自分の子孫を残す確率を少しでも高めるために多くの女性と交わり、女性はより強くて優秀な遺伝子を受け入れるために多くの男性と交わる。けっきょくのところ、私たちは貪欲な性欲によって支配された生物に他ならない、ということを、上の事実は示しているのだ。

 もし、ここまで私の書評を読んで、不快感や嫌悪、違和感を覚えた方がいるなら、迷うことはない。今すぐこの書評を読むのをあきらめるべきである。これから私が紹介する本書『アンテナ』は、前述した条件を満たす人たちにとっては、おそらく底知れぬ不安や理解不能な想い、憤り、そうしたものを感じさせるだけのものでしかなくなるからだ。だが忘れてはならないのは、そうした感情がもし起こるとすれば、その源は十中八九、人間が本来もっているものへの怖れにある、ということなのである。

 十五年前、小学校にあがったばかりの真利江は、何の前触れもなく姿を消した。必死の捜索にもかかわらず、真利江の行方はおろか、手がかりひとつ見つからない。ついさっきまでたしかに生きて存在していたひとりの人間が、突如としてこの世から消滅する――原因がまったくわからないまま、ただ異常な結果だけを受け入れなければならなかった萩原家は、そのときからおかしくなった。同居していた叔父の自殺、新興宗教にのめり込むことでなんとか正気を保っている母、真利江のことは忘れろと言い残して突然死んだ父、弟の発狂――そして本書の主人公である祐一郎もまた、「信じられる世界」で生きられなくなったことの不条理を感じつつ、しかし少なくとも表面上はごく普通の大学院生としての生活をおくっていた。
 そう、九年前に行方不明になった少女が発見されたという、あの事件が起こるまでは。

 真利江はなぜ消えてしまったのか。十五年前に何があったというのか。すでに死んでしまっているのか、あるいはどこかで今も生きているのか――とこう書くと、まるで行方不明になった妹の謎を追うミステリーのような印象を受けるかもしれないが、そうした要素は、じつはたいして意味はない。本書はむしろ、わからないものを言葉と理性で解き明かすことを目的に哲学を専攻した祐一郎自身の、変容の物語だと言ったほうがいいだろう。

 何もかも変だ。僕も、母親も、祐弥も、そして真利江も。真利江が消えた時から僕らの家族は変なのだ。この変な家族を常識的に再生させる道などあるもんか、と思った。

 前作『コンセント』でもそうだっだが、田口ランディという作家の作品について、論理的な言葉で説明するのは異常なまでに難しい。なぜなら、けっきょくのところ、祐一郎の「変容」とは何なのかと問われれば、SMの女王ナオミの素晴らしい妄想の力に触れた祐一郎が、それまでにない性欲の高まりに翻弄されたあげく、臨死体験にも似た意味不明な体験をすることという、支離滅裂な説明になってしまうからである。だが、本書の物語をそのような一般的な言語体系によって封印してしまうのは完全な間違いである。そういう意味で、著者である田口ランディは、けっして言葉にすることのできないもの、言葉で説明することのできない物事を、あえて小説という言葉の集合体で表現しようと試みている矛盾だらけの存在であり、また言葉という論理の世界で生きる私を含めた書評家たちにとって、本書は多分に居心地の悪い作品だと言うことができるだろう。私たちは言葉の使い手ではあっても、「言葉の呪術師」ではないからだ。

 私が以前からずっと疑問に思っていたのは、田口ランディの作品は触れた読者が、問題なく何らかの感銘を受ける者と、逆に完全な否定、あるいは拒絶とも言うべき態度を示す者とに二分化されてしまう、ということだった。なぜ本書を読んだときの態度が極端にわかれてしまうのか――ひとつだけわかるのは、本書に魅力を感じるとすれば、それはそのまま著者自身のもつ魅力であり、著者の魅力とは、人間が生み出した文化や論理といったものを超えたところにある、すごく根源的で、かつ非常にシンプルで、だからこそ言葉そのものを拒否してしまうものとの接触を感じさせる、という点にこそある。そしてそれは、これまで社会を担ってきた古い知識人タイプの人たちには、けっして理解することのできない魅力でもある。

 そりゃそうである。いったい誰が、本書を読んで勃起した、などと言うことができるだろうか? だが、本書の触れる者は、ほぼ間違いなく、自分自身のなかにある人間の、知識人としてのプライドと正面から向かい合うことになるだろう。そこがターニングポイントだ。そこから自分が何を感じ、どうなっていくのか――それはまさに、自分次第である。

 あなたははたして本書を、いや田口ランディの「言葉の呪術」を拒否するのだろうか、それとも受け入れるのだろうか。(2001.03.19)

ホームへ