【講談社文芸文庫】
『暗室』

吉行淳之介著 
第6回谷崎潤一郎賞受賞作 



 人間としてどのような生き方を選ぶのが幸福なのか、などという問題は、それこそ個人の有り様によって千差万別であるのがあたり前なのが今の世の中であるが、それでも幸福な人生のひとつのパターンとして「結婚して子どもを育て、多くの子孫に囲まれながら老いていく」というものが挙げられることを、否定できる人はおそらくいないだろう。なぜなら、そのパターンは人間の本能に根ざす性欲を満たし、人類という種の存続を果たすという側面と、文明を持った人間たちで構成される社会制度を効率良く維持していくという側面について、やはりひとつの理想でありつづけているからに他ならない。

 2001年6月に刊行された岡田斗司夫の『フロン』は、その理想像の、社会制度としての側面が崩壊しつつあることを指摘した、という意味で、非常に興味深いものである。それは私たち人間が、集団としての価値よりも個人としての価値を優先する生き物になりつつある、ということの指摘でもあったわけだが、ここでひとつ問題となるのは、そうした個人主義と「人類という種の存続」という、生物としての本能との関係、つまり、生殖をともなわない、快楽を目的としたセックスをどのように位置づけるのか、ということである。

 本書『暗室』に書かれていることをせんじ詰めると、最終的には個人主義と生殖行為という相反するものの間で揺れ動く、エロチシズムの問題へと突き当たることになる。本書に登場する中田修一なる小説家は、妻の圭子を交通事故でなくしてから二十数年、ずっとやもめ暮らしをつづけている、という設定であるが、それは死んだ妻に操を立てている、ということではない。彼には多加子と夏江という愛人――というかセックスフレンドがいて、本書のなかでさらにマキという同性愛者とつきあい、家にも家政婦の女性を雇い、その気になれば娼婦を買うことも厭わない、性に対して奔放な中年男として書かれている。

 実際、本書における圭子の、個としての位置付けは非常に低く、他の女性たちの描かれ方と較べると、ほとんど「中田の妻だった女」という記号としての意味しか持たされていないように思われる。それは、一面においては正しいとらえ方である。なぜなら、まぎれもない男性優位社会における結婚という儀式は、女性から個を奪う制度でもあるからだ。既婚女性の97パーセントが、それまで持っていた姓を失い、周囲から「誰々の奥さん」「誰々ちゃんのお母さん」という呼ばれ方をされるという事実――そうした個の喪失を強制する社会制度に疑問を呈し、自分が自分でありつづけるためにどのようなスタンスをとるべきなのか、ということをテーマとする女性作家は多いが、吉行淳之介は、あくまで男の立場からのアプローチを試みていると言うことができる。そして著者の、女性に対する個のとらえ方は、まさに「女」という、生まれてきた以上けっして変えることのできない、受け入れるしかない事実へと還元される。それは、自分が男として、女を抱いたときにどのような声をあげ、肌の色がどう染まり、どこを触ればどう反応するか、ということでもある。

 それがあまりに男性的なものの見方――女性を性の商品としてしかとらえていない見方だ、という反論に対して、異議を唱えるつもりはない。ただひとつだけ明らかなのは、本書のなかの中田もまた、社会制度としての結婚や育児というものに、強い違和感を覚えている、ということである。

 二十年前、一人の娼婦の口から出た「ついでに生きている」という言葉は、それと同じ内容をさまざまな表現で言い現すことができる。いずれにせよ、私は現在でも「ついでに生きている」という気分が、心のどこかにある。

 中田は一度結婚して夫という立場になり、また妻の妊娠によって一時は父という立場になる可能性を持っていた。だが、彼は妻に堕胎を受け入れさせ、さらにその妻の死によって、夫と父という役割を放擲された身である。時には昭和四〇年代前半、戦後の混乱はもう影もなく、高度経済成長まっただなかのなか、人々がひたすら発展と安定を追い求めたその時代において、その基盤たる社会制度――夫として、父として自分の家庭を築くという役割から背を向けることが、当時としてはいかに異例な生き方であったか、ということは、「ついでに生きている」というその言葉がすべて物語っていると言える。

 社会制度としての結婚や育児を拒否し、種の存続という、生物としての役割をも拒否した以上、最後に残る唯一のものがエロチシズム――生殖を伴なわないセックス、性欲という本能をいかに個人の快楽として転換するか、という一点に集約されて行くのを、著者はなんのてらいもごまかしもなく受け入れた。それは性行為が恋人どおしの最高の愛情表現であるという、物語としての符号からの脱却であり、超越でさえあるのだ。

 だが、社会制度はともかく、種の保存をも無視した性行為が、快楽を目的としたものであるがゆえに、じつは何も生み出さないものであることも、また確かなことなのだ。本書のなかで、多加子は結婚し、マキはシングルマザーという道を選んだ。それぞれ「妻」であること、「母」であることを受け入れ、それゆえに社会制度に絡めとられていくのを、中田はどうすることもできない。最後に、子どもが生めない体であるという夏江だけが残るが、それまで生活感のまったく存在しなかった彼女の周囲にも、徐々に生活の匂いがつき始める。

 本書のタイトルである「暗室」が、そうした生活臭さを覆い尽くす暗闇を意味するものであるとするなら、そこから生み出されるものは、いったいどういう形をしているのだろうか。そして未来に残すものを何ひとつ持ち得ない中田は、これからどういう生をおくることになるのだろうか。(2001.09.11)

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