【文芸社】
『もうひとりのぼくを探して…』

三浦武治著 



 もうひとりのじぶんがいたら みなさんどうしますか

 表紙のページを開く。まんまるな目玉をした小さなふくろう「ポッポ」が、じっとこちらを見つめている。そしてそこに添えられた、上述の言葉。ずいぶんと面白い発想だなあ、と思う。なぜならそこには、「もうひとりの自分」というものがいったい何を意味しているのか、また、なぜ自分がもうひとりいるのか、といった常識的な考えから一気に飛躍して、もうひとりの自分とどういうことがやりたいのか、ということを読者に問いかけているからだ。

 本書『もうひとりのぼくを探して…』というタイトルの絵本には、とくに明確なストーリーといったものがあるわけではない。小さなふくろうのポッポが、もうひとりの自分と出会ったらいっしょにやってみたいと思う素敵なことを、いろいろと夢想する――そんな様子を、淡い色彩のイラストとともに綴った作品である。

 たとえば、私はインターネット上では読書系ホームページを運営している者であるが、それ以前に社会人であり、ある会社に勤める独身サラリーマンだったりする。会社で働き、掃除洗濯といった家事をこなし、そのうえで自分の大好きな読書を楽しみ、ホームページに載せる書評を書く。もし1日が30時間ほどあったとしたら、ということはよく考えたりするが、本書に出てくるポッポの、もうひとりの自分との素敵な時間の過ごし方に触れた後に、もし自分がもうひとりいたら、きっと読書が2倍楽しめて便利だろうなあ、などと考えてしまう自分が、いかにも効率第一の大人的な考えで悲しかったりする。

 長田弘の『本という不思議』によると、大人と子どもの本の読み方は、本質的なところで異なっているという。大人の読書が、本の中に「何が」書かれているのかに重きを置くのに対して、子どもの読書は本を「どのように」読むかを考える、というのである。たとえば、私がこのサイトでおこなっている書評は、紹介する本に「何が」書かれているか、そしてその作品のテーマがどういったものであるかを、あくまで個人的な見解として指し示す、という意味で、もっとも大人的な読書の結果として生まれたものだと言える。だが、子どもが本を読むとき、同じ本を読んでいても、そのたびに違った世界、違った物語を、自身の想像力でつくりかえてしまう。子どもが同じ本を飽きることなく何度でも読む――そんな自由な精神が、本書のなかにもたしかに生きている。

 本書に登場するポッポに関する情報が、ほとんど何もない、というのも、私たち読者に自由な想像力をはたらかせてもらいたい、という著者の配慮なのだろう。ポッポはどこに住んでいるのか、家族はいるのか、ふくろうなのに空を飛ぶ場面がまったくないのは、どうしてなのか? 大人の読者が当然感じるであろうこうした疑問に対する答えは、きっとそれぞれの心の中にこそあるのであり、そのすべてが正解なのだ。だが、それでもあえて考えさせてもらうなら、「手をつなぎたい」「しゃぼん玉のなな色をみせてあげたい」「お花をかざってあげたい」というポッポの、もうひとりの自分への想いは、けっしてその相手がもうひとりの自分でなくても成立するものではないだろうか。

 ポッポのこうした想いを、私たちはよく知っている。それは言ってみれば、恋愛感情にもっとも近い想いである。なぜなら、私たちが誰かに恋をしたとき、自分が楽しいと思うことをその人にも分け与えたいと思うものだし、また、その人のために何かをしてあげたい、と思うものでもあるからだ。そしてそうした想いは、自分を大切にすることを知らない人間には、けっして生まれてこない。ポッポの「もうひとりのじぶんってどこにいるんだろう……」というつぶやきは、自分と心を共有することのできる大切な人はどこにいるのだろうか、ということでもあると私は考えるのだが、この絵本を読んだ人は、どういうふうに受け取ることだろう。

 以前、私は作家によって生み出された物語は、生み出された瞬間に作家の手を離れ、独自の生命をもった存在となる、と書いたことがある。「ポッポ」というキャラクターは、たしかに著者の生み出したものであるが、同時に本書を読んだ人の数の分だけ、その人独自の「ポッポ」がいる、ということでもある。限りなく白いキャンパスに、もうしわけ程度に描かれたポッポ――はたしてこの絵本は、どれだけの「ポッポ」を人々の心の中に宿すことができるのだろうか。(2002.10.18)

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