【新潮社】
『アニバーサリー』

窪美澄著 



 人はひとりでは生きられないひ弱な生き物である、という表現は、私がこれまでの書評のなかでさんざん繰り返し述べてきたことであるが、ではそれまでの常識が覆されるような危機的状況において、それでもとにかく生き延びるために必要なことは何なのか、ということについて、具体的なことにとくに触れてこなかったのは、ある意味でこのうえなく自明のことだからに他ならない。人はひとりでは生きられない。であれば、生きるためには他の誰かの支援をとりつける必要がある。誰かに助けを求める。それがまったくの他人であっても、臆面なく助けを求めることができ、仮にそれを断られてもすぐに気持ちを切り替え、別の人に助けを求めるための力――おそらく「コミュニケーション」というのは、たんに人と人とが言葉で情報を共有するということだけでなく、誰かを助けたり、あるいは誰かに助けを求めたりするためにこそ発揮されるものではないか、と最近になって思うようになっている。

 内田樹の『こんな日本でよかったね』によれば、こうしたコミュニケーションの力のことを「コミュニケーション感度」と呼んでいるが、これらをさまたげる要素として「こだわり・プライド・被害妄想」の三要素を挙げている。逆に言えば、これらの要素が強ければ強いほど、生物としての生存能力が低いということを意味するのだが、たとえば事業に失敗したり、多額の借金を抱えたりした人たちが、家族を巻き込んで無理心中したりするような事件の情報に接すると、そうした説に妙な説得力を感じずにはいられなくなる。事業に失敗したり、借金を抱えたりしたところで、人は死ぬわけではない。にもかかわらず自殺という選択をしてしまうのは、そこしか道が残されていないという強い思い込みがあったからである。だが、もしその人がこだわりやプライドといったものをかなぐり捨てて、誰かに助けを求めるという別の道を選ぶことができれば、あるいは無理心中といった悲劇は回避できたのかもしれないのだ。

 今回紹介する本書『アニバーサリー』では、作中で東日本大震災が起こっている。原発事故という要素を加えるなら、この震災は間違いなくこれまでの常識が覆される大きな危機であり、じっさいに本書のなかでも西日本や海外に避難する人たちのことを取りあげてもいる。だが、私が本書を読んで上述のような「コミュニケーション感度」のことを思い出したのは、何もそれだけが理由ではない。

 涙まじりの千代子の言葉で晶子は生まれて初めて気がついたのだった。
 自分の感じていることや思っていることは、言葉にしないと誰にも伝わらないんだ、ということに。そんな当たり前のことすら、今までの晶子にはわからなかった。

 本書はおもにふたりの女性を中心にして紡がれる物語であり、またこのふたりの関係性を描いた物語でもある。ひとりは吉川晶子。七十五歳にしてマタニティスイミングとベビースイミングの指導員であり、同時に誰にも頼ることができずにいる妊婦や母親のために積極的な手助けを行なう名物教師として有名な女性である。そしてもうひとりが平原真菜。見習いカメラマンであり、また今まさに未婚の母になろうとしている女性である。ふたりのつながりは、スイミングスクールの先生と生徒というものであるが、真菜は友人の勧めで仕方なく晶子のクラスに参加していたふしがあり、その友人が出産してクラスを抜けた後は一度も顔を出していない。

 もともとふたりは赤の他人、それも生きてきた年代の極端に異なるふたりであるうえに、唯一のつながりだったスイミングスクールという線でも今は切れている状態にある。だが、晶子はスイミングのほかにも妊婦にやさしい料理を昼食としてふるまったり、また自分が受け持った生徒たちの情報をすべてメモに残しており、臨月を迎えそうな妊婦、あるいは母親になった生徒たちへのアフターフォローを進んで行なったりするような、極度のおせっかい焼きでもあった。そしてその極度なおせっかい焼きという性格が、東日本大震災という天災と結びつくことで、ふたりをつなぐほんのわずかな線を復活させることになる。

 晶子が数ある生徒のなかで、とくに真菜を気にかけていたのは、たまたま大震災の日が彼女の臨月と重なっていたというだけではない。彼女にはどこかわけありな雰囲気――とくに、他の人たちの手を借りるということに対して、極端なまでに頑なな雰囲気があったことも大きな要因のひとつとして挙げられるのだが、なぜ真菜がそんなふうであるのか、そして晶子がなぜそこまでおせっかいを焼くのかについて、それぞれの過去を振り返るという形で物語が構築されていく。それは上述したように、世代や生きた時代の異なるふたりの女性の人生を綴った物語、ということであるが、本書を読み進めていくにつれて、このふたりの女性の生き様に、どこか似通ったところがあることに読者は気づく。

 上述の引用文は、戦時中の疎開先で、足に怪我をしたことを黙っていた晶子が、その怪我がもとで高熱を出してしまったときの独白であるが、質屋の娘として何不自由のない生活を続け、やりたいことや思ったことをわざわざ口にしなくとも、そばにいる人たちが全部代わりに用意してくれたという、まさに箱入り娘だった晶子は、もともとは自己主張については極端なまでに無頓着なところがあった。いっぽうの真菜も、自分の思うことや主張についてはことさら口に出すのを避けるようなところがあるが、そこには母親である以上に、やりがいのために働く女性として生きてきた真希の影響があった。そして晶子は母親としてだけでなく、メディアにも名物スイミング教師として取り上げられるような仕事をこなしてきたという実績があり、真菜はシングルマザーとして、子どもが生まれれば仕事との両立を余儀なくされる立場にある。

 晶子と真菜、それに真菜の母親である真希もふくめ、本書には母親としてだけでなく、働く女性として自身の居場所を求めずにはいられない女性の生き様が書かれている。だが、真菜にしろ真希にしろ、そのふたつを完璧にこなすことには必ずしも成功していない。晶子にしたところで、四人の子どものうちのふたりを病気と流産で死なせてしまっている。そして彼女たちに共通しているのは、世の女性に対して世間が求めているものの大きさに押しつぶされそうになっていたり、あるいはそれに応えようとしてかえって何かを壊してしまう女性たちの孤立感だと言える。そしてその孤立感は、晶子の時代とくらべて格段に深いものとなっているという実感が彼女にはある。

 真菜だけじゃない。満ち足りない子供のまま、クラスにやってくる生徒が増えたのはいつ頃からだろう。大人になれず、どこかが大きく損なわれた子供のまま、子供を産んで、子育てが上手くいくわけがない。子供に伝わるのは、愛なんかじゃなく欠損だ。欠損だけが受け継がれていくのだ。

 かつてひどい戦争を経験し、もう二度とあのような思いを子や孫にさせたくない、という願いはけっして嘘や偽りではない。にもかかわらず、戦後の物質的な豊かさに反比例して、人々の心がどこか満たされないものを抱えているように見えるのは、けっして私だけではないはずだ。そしてそんなふうに考えたときに、本書が他ならぬ東日本大震災という要素を持ち込んできた真の意図が垣間見えてくる。おそらく人というものは、私が思っている以上に誰かに頼ってほしいと思っているものなのだ、と。だが、私たちの周囲には、いつも晶子のようなおせっかい焼きがいるわけではないし、そうしたおせっかいが常に受け入れられるというわけでもない。それでも、おせっかいを焼かなければそれが必要かどうかはわからないし、助けを求めなければその声は誰にも届かない。本書があなたにとっての、ひとつの「記念」となることを願ってやまない。(2013.11.12)

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