【新潮社】
『アンジェラの灰』

フランク・マコート著/土屋正雄訳 



「告解」という言葉がある。カトリックにおいては、洗礼後に犯した罪を司祭の前で告白し、神の許しを乞う行為のことで、仏教で言うところの「懺悔」にあたるものでもあるが、この告解をおこなうためには、当然のことながらどんな行いをするのが「罪」となるのか、という判断基準がはっきりとしていなければならないし、それ以前に何が悪いことであり、何が良いことであるかが、自分のなかできちんと認識されていなければならない。

 私はキリスト教徒ではないし、また「告解」の宗教的意義について明るいわけでもないのだが、そうした無知を承知で言うなら、自らの行為の内に罪を認める、というのは、じつはとても勇気のいる行為ではないか、と思っている。人間というのは自分勝手な生き物で、ともすると殺人という恐るべき行為を犯しても、自分の主観的判断においてはその罪を認めようとしないばかりか、「死んで当然」とさえ思ってしまうこともあるものだ。それは、たとえ宗教の戒律などで人間の罪が厳密に規定されていたとしても、じつはあまり関係のないことだろう。問題なのは、自分がその行為を「罪」だと思うか、「悪いこと」だと判断するかどうか、ということである。

 自叙伝を書く目的は、人によってさまざまだろうが、大抵は自分を振り返り、自分という人間を再認識するためのものである。そして、ありのままの自分を受け入れることのできた人だけが、すばらしい自伝を残すことができる。ロアルド・ダールの『少年』『単独飛行』や、プーラン・デヴィの『女盗賊プーラン』など、それを書く(あるいは語る)原動力となったものは各々異なるが、そこには良い自分も悪い自分も、すべてひっくるめて自分なのだと認め、愛そうとするもうひとりの自分がいる。そういう意味で、「告解」も、自叙伝を書くことも、その根底にあるのは同じなのではないか、と思うことがある。

 本書『アンジェラの灰』は、アイルランド系アメリカ人である著者が、母親の故郷であるアイルランド共和国のリムリックに移り住んだ4歳のときから、再びアメリカへと渡っていく19歳のときまでの生活を綴った自叙伝であるが、その少年時代は、自分でも語っているように、けっして幸福なものではなく、想像を絶する極貧のなかで、常に飢えや病気や死と隣り合わせに生きていかなければならない、なんともみじめなものだった。

 北アイルランド出身で、旧IRAで、そして何より飲んだくれの父親は、働いてもけっして長続きせず、せっかくもらった給金や失業手当もぜんぶ飲み代に使ってしまうというごくつぶしであり、母親はそんな生活能力のない、口先だけの父親に嘆くばかり。暖炉にくべる石炭さえなく、ただその灰を見つめて悲嘆にくれる母親の姿――本書のタイトルから考えても、その姿こそが著者の少年時代を象徴するものであり、またいつも冷たい雨を降らせ、自分たちを濡らしていくリノリックの空の灰色にもつながっていくものでもあるだろう。この灰色ほど、この自叙伝にふさわしい色もあるまい。

 定職につけない、ついても長続きしない父親の事情については、アイルランドが抱える複雑な問題も大きく関係している。同じ島にありながら、北と南で分裂しているアイルランド――そこでは、アングロ・アイリッシュ系(アイルランド化した英国文化)とケルト系が対立し、さらにカトリックとプロテスタントの宗教的対立が絡み合った状態にある。本書にしばしば出てくる「北の出身」という父親へのあざけりの言葉は、たんに彼が北アイルランド出身だということばかりでなく、北アイルランドの大部分がプロテスタントであり、イギリス寄りの文化を有している、ということへのあざけりであり、八百年にわたってアイルランドを支配しようとしてきたイギリスへの憎悪の念がその根底にある。だが不思議なことに、この父親は、子どもたちを真夜中に叩き起こし、アイルランドのために死ぬことを誓わせるほどの愛国主義者でもあるのだ。そして、同じアイルランド人たちからは嫌われている。本書には、こうした理不尽な事柄が、あちこちに転がっている。

 信仰のために死ぬことは名誉だと先生がいい、アイルランドのために死ぬことは名誉だとパパがいう。なんだか、ぼくたちは生きてちゃいけないみたいな気がする。――(中略)――いま生きている大人は、アイルランドのためにも信仰のためにも死んでいないわけだけど、そういう大人がなぜこんなに大勢いるんだろう。不思議だと思う。でも、そんなことはきけない。きけば、頭をごつんとされて、表で遊んでこい、っていわれるだけだから。

 アイルランドが抱える複雑な民族問題など、まだほんの子どもでしかないフランクにはわかるはずもない。もちろん、すでに大人になった著者にはわかっていることだろう。だが、そうした事情が本書のなかで語られることはない。本書のすばらしいところはいくつも挙げられるが、なにより素晴らしいのは、当時の惨めな思い出を、大人の視点からではなく、子どもだったフランクの視点から描くことを徹底している点であろう。極度の貧困、偉ぶるばかりで何も教えようとしない、身勝手な大人たち、周囲で驚くほどあっさりと死んでいく友人や兄弟――考えてみれば、これほど理不尽な境遇にありながら、そんな自身の運命を呪うこともなく、ただその瞬間瞬間を生きていくことができる子どもたちのたくましさを、本書ほど明確にとらえている作品も珍しいのではないだろうか。

 そもそもフランクたちがリノリックに来たのは、妹のマーガレットの死が直接の原因であるが、それからもフランクの周囲では、バタバタと人が死んでいく。双子の弟オリバーとユージーンも死んでしまうし、学校の友人も、親戚も、そしてチフスで入院した病院で知り合った、詩の好きな女の子パトリシア・マディガンも、淡いロマンスが芽生える間もなく死亡してしまう。だが、子どもであるフランクは、そうした重い事実に対して感傷的になったりはしない。子どもであるがゆえのささやかな知恵で死というものをとらえ、納得し、そしてあっさりと自分の生活へと立ち戻っていく。そこには善も悪もなく、無邪気で、それゆえにときには残酷でさえある子どもというものの本質が、たしかに描かれている。

 天使がユージーンを連れていった。ユージーンは、人を殺すシャノン川の湿気からは遠く、天国でオリバーやマーガレットといる。天国には、きっとフィッシュアンドチップスがいっぱいあって、意地悪をするおばさんもいなくて、お父さんは失業手当を必ず家にもって帰って、どこにいるか探しにパブからパブへ駆けまわる必要もない。きっと、そうだ。

 著者の少年時代は暗く、重苦しいものである。だが、にもかかわらず、本書のなかの子どもたちがしでかす数々のいたずらは、読む人たちの笑いを誘わずにはいられない。なんとたくましく、なんと輝かしい命だろう、と感嘆せずにはいられない。そして同時に、これほど生き生きとした子ども時代の思い出を、まるで上質の結晶のように表現するのに成功した著者のことを思わずにはいられない。何度も鼻先でドアを閉められ、否定されることばかりだった少年時代の思い出を、自分のものとしてまっすぐ見つめることができるようになるまでに、いったいどれだけの紆余曲折があったのだろうか、と。

 多くの人の死を経て、今、ここに生きている自分――本書は、かつて思った「アイルランドのためにも信仰のためにも死んでいない」大人としての自分がここにいる、ということに対する、著者の「告解」という意味があるのではないだろうか。(2002.08.04)

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