【新潮社】
『そして粛清の扉を』

黒武洋著 
第1回ホラーサスペンス大賞受賞作 

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 2002年10月にあからかにされた、名古屋刑務所で受刑者が職員らの不当な暴行によって死傷したという事件を聞いたとき、私はなんとも複雑な気持ちになったことを覚えている。これまで加害者だった者たちが、刑務所内で一転して被害者の立場にたたされたとき、彼らははたして何を思い、どのような気持ちをいだいたことだろうか、と。

 受刑者は何らかの犯罪に手を染めた者たちであり、刑が確定して服役しているあいだは、人間としての多くの自由を束縛された身柄である。もちろん、彼らが犯した罪についてはさまざまなケースがあるのはたしかであり、また冤罪の問題もあるだろうが、たとえば犯罪被害者――それも、愛する家族を殺されたり、心の拠り所としていたものを不当に奪われたりした者たちにしてみれば、どれだけ憎んでも足りないその相手を、それでも法の裁きにゆだねる理由のひとつは、彼らが刑務所で罰を受け、心から刑に服することによって、人間として更正されるであろうことを期待しているからにほかならない。これはあくまで私の個人的推測であるが、上述の事件の背景にあるのは、本来更正の期間を過ごしているはずの受刑者には人権など存在しない、だから彼らはどんな非道な扱いもあまんじて受け入れなければならないのだ、という意味の取り違えであり、それは総じて、日本の刑法や刑務所のありかたが、犯罪者の更正という意味を失いつつあるのではないか、という結論へとつながっていくのだ。

 犯罪被害者にしてみれば、刑期を終えて出所してきた元犯罪者が、また同じような犯罪をくり返すことほどむなしいことはない。それは、被害者が受けた肉体的・精神的苦痛が、なにひとつ報われることがなかった、ということを意味するのだ。今問題になっている、少年法のありかたについても、こうした加害者と被害者の扱われ方のアンバランスさが一番のネックになっているように思える。被害者の苦しみは同じなのに、加害者が未成年であるという、ただそれだけの理由で前科もつかずに社会復帰してくる――こんな事実を前にして、この世は被害者になるより加害者になるほうが得なのか、と真剣に考える者がいたとしても、私たちは何と言って説得すればいいのだろう。それでなくても、殺人事件の加害者に殺された人たちの命は、けっして戻ってこないというのに。

 卒業式を明日にひかえた宝巌高校の校舎で、3年D組の生徒29人を人質にした立てこもり事件が発生。犯人はそのクラスの担当教師、近藤亜矢子。どこで手に入れたのか、拳銃とナイフを教室内に持ち込み、いきなり生徒二人を殺害、その後教室に入ってきた男性教師ひとりを拳銃で撃ち殺し、さらに生徒三人を銃殺、その死体を窓から投棄――本書『そして粛清の扉を』の冒頭は、いきなりこんなショッキングな展開を見せる。

 40も半ばを過ぎた、それまではおとなしく生徒たちに軽んじられるだけの中年女性教師が、いったいなぜこのような凶行におよんだのか、そして彼女の真の狙いは何なのか? 亜矢子を中心とする教室内の出来事と、今回の事件を解決するために動き出した警視庁捜査第一課を中心とした、教室の外での出来事を交互に映し出すことで展開していくこの物語、普通に考えれば、悪人は間違いなく亜矢子のほうであり、まるで警察の動きを先読みしているかのように、次々と先手を打って彼らの動きを封じていき、巧妙にマスコミや人質の親たちに揺さぶりをかけていく、きわめて用意周到で駆け引きに長けているこの犯罪者を、警察がいかにして取り押さえるのか、という点に注目されそうになるのだが、本書を読みすすめていった読者は、次第に人質になった生徒たちよりも、むしろ亜矢子のほうに感情移入し、彼女の味方をしたくなるような、そんな気持ちになっていくに違いない。

「……世の中には、法律とは別に、暗黙の内に心の中に引かれた共通のルールが存在します。あなた達が、そこに自分専用のルールを持ち出すなら、こちらも、自分のルールを持ち出す迄です……」

 通り魔強盗、麻薬の売買、売春行為、陰湿な脅迫やたかり、電車への置き石行為――生徒を殺害するたびに「緊急措置」と称して亜矢子があきらかにする、生徒たちの過去の、あるいは現在進行形の犯罪行為の数々は、どれも少年犯罪というにはあまりに凶悪で身勝手極まりないものばかりであり、亜矢子がいわば、被害者の代表として加害者となり、それまで一方的に加害者であった生徒たちを被害者の立場に無理やり置き換えようとして引き起こした立てこもりであることが見えてくる。被害者と加害者の逆転――この書評の冒頭で取り上げた事件に対していだいた複雑な気持ちが、本書に対してもわきあがる。それは、たとえば同じようなジャック事件を扱った、大石圭の『処刑列車』と比べれば、はるかに人間らしい、まだしも理解できる範囲の犯罪動機だと言えるからだ。そして理解できるがゆえに、亜矢子にこの途方もなく稀有な事件を引き起こさせた背景にあるものを、考えずにはいられない。

 犯罪被害者の気持ちは、当人が犯罪被害者にならなければわからないものだ。しかも、わかったときは文字どおりすべてが手遅れのことが大半である。警察にできるのは、犯罪者を捕まえることで犯罪の拡大をふせぎ、しかるべき法の裁きを受けさせること。だが、その法の裁きが、犯罪者の更正というもっとも大切な役割をはたせないでいるとしたら、やはりそれは問題だろう。

 自分の都合ばかり押し通そうとし、他人が自分と同じ人間だという想像力も持てず、犯罪行為を犯罪だとさえ思っていない人々――私が心底恐ろしいと思うのは、本書に書かれた生徒たちのような人々が、けっして虚構の存在として誇張されているわけではないことを、充分知ってしまっているという点である。はたして、今回の事件でもっとも悪いのは誰なのか――大勢の人間がバタバタと殺されていく本書であるが、問題なのはそうした殺人行為の描写などではなく、亜矢子をそこまで追い込んでしまった「何か」であり、その「何か」もまた、けっして虚構のものでしかないと断言することは誰にもできないのだ。

 神戸でおこった連続児童殺傷事件の被害者が書いた『彩花へ――「生きる力」をありがとう』では、著者は想像を絶する苦悶を乗り越えて、それでもなお「生きる」という道を選んだ。だが、犯罪被害者の誰もがこの著者のような心境にたどりつけるほど強いわけではない。本書の近藤亜矢子が進んだ道は、けっして虚構で終わらせることのできない深刻なものをはらんでいる。(2004.03.12)

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